展望2020.10.04
【動画】 ツイ民 「日本の教育はフィンランドに比べて駄目、運動会で順位をつけるから」→8万いいね
高校の頃のマラソン大会ほどクソみたいな行事はなかったですね。
小学校と中学校は特にそういうのが無かったのです。
地域的に運動に力入れてないので、そうだったのでしょう。
運動出来ない方であったアタクシには辛かったですねマラソン大会。
運動で順位や差をつけなくても、勉強で差は出ますし、いずれ目に見えた形でわからされるのですよ。
運動でもそうですね、順位つけなくても、出来る出来ないの差はどこかで身にしみるわけです。
平等というのは前提条件であったり権利であったり、概念的なもので、本質的には差異しかないのが人間なわけです。
そういうの取っ払って個人が大事なんだーとやってみたところで、そんな個人が社会という集団で尊重され認められ大事にされるのかって事があるわけです。
無理でしょ、そんなご都合主義。
ミーイズムで上手くやれたら最大公約数的に幸福度が上がるというのは、それはやはり非現実的なわけですよ。
人間の能力差があり、その結果としてのインセンティブがあるから世の中ってもんが成り立ってる面があるわけですよ。
それを取っ払って、みんなそれぞれが一番さ世界に一つだけのお花ちゃんだもの、なんて事やったところで誰もがお互いを認めないようになるだけですね。
誰もが手前が一番と思っていたいわけですが、誰もが手前が一番になったら、誰が一番かって事になるんですよ。
それを裁断批評する手段が公というもんでしょう。
その公というものが公平であれば、納得せざるおえないわけです。
それが不公平であるのが、問題なわけです。
マラソンであるとか、テストであるとか、数字で決まるというのは公平性が担保されているわけです。
それでやる気がどうとかってのは別問題で、アタクシみたいにどうあがいてもマラソンもテストも大嫌いな人間だっているわけです。
むしろ下手にお優しいご指導なり頑張って走ってドベで拍手喝采なりを頂いても、嫌なもんは嫌、嫌いなもんは嫌いってのは変わらないですし、どうせ今度はそれを受け入れない事が悪とされるのは目に見えてます。
フィンランドだろうが日本だろうが、公というものがあって、それの定めるお約束を受け入れない事で叩かれるってのは変わらないですよ。
またまた『へうげもの』のまたまた有楽斎ですが、侘び寂びより南蛮趣味が好きだからと言っても、お茶々の誘いに賛同して徳川倒して権力簒奪したところで今度は南蛮趣味以外認められない世界になるだけで、そういう窮屈さがまっぴら御免なんだと言う名場面があります。
要するにそういうことでござんすよね。
『へうげもの』って有楽斎はもう一人のかなり作者寄りの主人公なんじゃないかと勝手に思ってるのですが、実に良い事言うんですよね。
そう、窮屈なんですよ、どちらにせよ。
日本の一般的な学校教育ってもんも窮屈なら、フィンランドだの何だのリベラル的な教育ってのも窮屈なんですよ。
結局、とどのつまり、畢竟、自由なんてものは公と個がある以上は制限がどこかであるわけです。
だけど自由というものがあるとすれば、それは非自由の中で自分自身で作り上げるものなわけです。
自由とは相対的な状況に過ぎないということです。
麒麟が来るってそれぞれの欲目なり願いなり願望なりのすれ違いのドラマでしょうね。
実は誰一人同じ願いじゃないわけです。
信長は承認欲求、光秀は「平らな武士の世」を求めているわけですが、到達点が同じ状態なので仲良く突っ走るわけですね。
だけど願望が違うので、あの結果になったんだ、という筋書きになるのでしょうかね。
まぁだから文句言ってんだわなぁ、と。