展望2020.06.05
個人資産数億も溶かした事ないですけど、なんでわざわざ鉄火場というより地獄の業火に包まれるような人生を目指すのか理解不能ではありますね。
家族がいたら尚更です。
私はギャンブル好きですが、余剰資金でしか絶対にやりません。
それも投資で得た利益だけしか使いません。
基本は再投資ですが、ギャンブルも面白いので少しばかりつぎ込みます。
日経225先物もやりましたし、FXもやりましたし、死語になりそうななんちゃら通貨もやりました(ボートやパチンコは遊びレベルでしかやらないのでやってるうちには入りません)
半分は興味本位と勉強兼ねてでした。
日経225先物取引は、ルール的にベットする側が不利なのでやめました。
そこに気が付かないと9割から7割は死ねます。
そういうルールです。
マカオのバカラが可愛く思えるような鬼畜ルールですが、あんまり誰も問題にしてませんね。
文句はたまに観ますが・・・
どのルールかはやってみてのお楽しみです(実に簡単かつ基礎の部分です)
それに気がつくと「これってやっぱアレやコレだけが勝つためだけのもんなんだなアホらし」ってのがよくわかります。
FXは海外888倍フルレバゼロカット業者で遊びました。
1万を10万にして最後ゼロになりました。
2週間ぐらいやっての結果なのでパチンコで言えば遊びに遊んで1万マイナスという感覚ですので楽しかったですね。
ルール的には日経225先物より公平です。
その分より大きなルールがありますし、それは個人レベルではなんともならない部分なので、それ抜きで丁半博打にしてしまえば、実に楽しいです。
ただしゼロカット業者以外でやるのはアホバカ間抜けのやる事です。
税金なんかどうでもいい話で、大事な事は信用取引におけるマイナス発生という点です。
株式でもそうですが、なぜ信用取引をやってはいけないと言われるかというと、30万円の現ナマで90万の取引をやった場合に、マイナスが30万円以上になったら、負債になるからです。
ゼロカットだとマイナスになった時点で強制的に反対売買で現ナマ没収だけで終わりますが、株式だの先物だの国内FXだのの信用取引はマイナス分、例えば30万円の現生で90万円の信用取引を行って、マイナスが90万円となると、現ナマの30万円は没収&負債60万円どうにかして支払えよって事になるわけです(超単純化した例えですが)
だから「ダメ、絶対」と言われるわけですよ。
買いは家まで、売りは命までという格言がありますが、それ以前に信用取引は卓についた時点でマイナス10万点スタートの超理不尽的に不利な状況で麻雀を打つようなものなので、何も楽しくないですし、得るものもあまり有りません。
その思考が理解できない人は信用取引を絶対にやらない方が良いですね。
マイナス10万点スタートでも50万点ぐらい取ったらいいんだろ?って人は、お好きにどうぞって事です。
もう一度言いますが、何も楽しくないですよ。
ギャンブルは楽しくないと意味が無いです。
命かけるのが楽しいなら止めませんけど。
私は死体蹴りがしたいわけでも、失敗から這い上がって成功した人を羨むわけでもないです。
そこで費やした「時間」というコスト計算が基本的に出来ない時点で金融資本主義のルール理解がプレイヤーとして足りていないという点を言いたいだけです。
つまり「時間の無駄」です。
金融機関のトレーダーでござる、売買するでござる、成功したり失敗したりしたでござる、それは給料が出るわけです。
つまり時間というコストを費やして給料を得るという労働生産ですね。
だけど個人トレーダーとなると、いくら時間を費やしたところで、給料は出ないわけです。
つまり時間というコストをドブに捨てるわけです。
トレードの結果プラスになったら儲かるじゃん、というのは少しズレた考え方で、トレードの結果はプラスもあればマイナスもあるわけです。
プラスなら問題ないとしても、マイナスであったら時間というコストも含めて大損なわけです。
そして時間は概念上取り返せないわけですよ。
いくら大儲けしても、コストとして消費した時間は返ってこない。
この怖さが骨身にしみる時には手遅れです。
「遊び」なら良いですよ、コストの対価に楽しさがあります。
「ギャンブル」でも対価として「スリル」があるでしょう。
だけど「労働」となるとどうでしょう?
「給料」が出れば対価となりますが、完全に成功報酬で失敗したら支払い義務有りのマイナスというルールがプレイヤーにとってどうかと考えるべきではないでしょうか?
私がやたら何でもルールという観点で考えるのは、麻雀とMGTが思考回路の原点ともなっているからかもしれません。
麻雀もMGTもルールで遊ぶゲームです。
いかにルールブックを読み解くかというのが鍵ですからね。
そういう点で言うとトレードでいくら儲けても、麻雀の点棒みたいなもんで、例えば1億円儲けました、もうやりません、ならそこで投了からの精算で終わりますが、だいたいは続けるわけですよ。
世の中には何億何十億と儲けた人はいますが、やめられない人ばかりです。
だいたい3億円の余剰資金があればもう充分ゆったり人並み以上の余裕のある生活は送れるのに、なぜかどんどんつぎ込む。
3億あれば4%の利益の運用で1200万円入ってくるんです。
税金引いても1000万円ぐらいは残ります。
本業があれば本業やりながら悠悠自適に暮せば良し、本業が無くても利回りで生活できるレベルの収入です。
利回りだけで生活して、貯金もして、それでも余剰資金が捻出できるレベルでしょう。
だけどそれが出来ないわけです。
それが人間というもので、昔のお坊さんが言ったように欲なんてものは猿が木から木へと飛び移るように湧いて出てくるもので、もうこれで充分ですありがとうなんて人はほとんどいません。
だいたい会社経営でもそうですが、儲かれば儲かるほど金を使わないといけないという思い込みに支配されるわけです。
だけど人の為に使うなんてことは、だいたい出来ない。
税金だって惜しい。
家族親類にすら出し惜しむ人もいるわけです。
ビル・ゲイツが寄付しているのは社会的背景から仕方なくと税制的に福祉財団作っておいた方がお得ってだけです。
誰だって金は惜しいわけですよ、それを世のため人のために使ってくださいまし、なんてのは基本的に無理でしょう。
だいたい生活レベルガーとなって毎日毎月毎年の固定費を上げていく、そうなると金なんていくらあっても貯まらないわけです。
それでも貯まるぐらい儲かればいいですが、今回のコロナ相場みたいなところでドツボにはまるわけですね。
乗り切れればいいでしょうけど、だいたい迷惑するのはまわりの人間なわけですよ。
バブル経済の時に株価暴落していくところで私の知っている人間でも何人かいましたよ、アホなタイミングで株やらに手を出して家族に大迷惑かけていた人。
なぜか人間ってのは苦労して乗り越えると記憶の改ざんで、何か素晴らしい体験した自分凄いみたいな思考になります。
それの繰り返しなわけです。
無駄な苦労、つまり時間というコストの浪費を繰り返しているだけです。
お金を捨てたくない人は多いですが、時間は捨てても良いと思う人が多いのは不思議です。
ここで自由と平等を愛し人権意識と民度高すぎ高杉くんな大正義アメリカさんの様子を観てみましょう。
NYシティーが大騒ぎですね。
どうもギャングという名のド底辺半端者が暴れてこそ泥やらもしている模様。
流石ですね。
黒人様無罪になりそうなアメリカですね。
ナポレオンになるか、ロベスピエールになるか。
先日に書いた通り、人間が人間を攻撃する生き物という認識がまず必要で、差別は攻撃の一種であると定義すれば、誰しもが差別者となり得るもので誰しもが差別者でもあると言えるわけです。
なので黒人だから差別しない、というのは有り得ない事ですね。
重要なのは事実の関係性であり、考えるべき点もそうです。
書き始めると長くなりますが、畢竟何が差別で何が差別ではないのかなんて「攻撃者」にはわからないのです。
そもそも自分が人を攻撃しているとなんて思っていないのかもしれません。
そういう人ってのはどこにでもいるわけです。
くどいですが、誰しもがそうである可能性は常にあるわけです。
私は日常的に差別的な侮辱を受ける職種でありますので、敏感ではありますが、やっている側は差別だとは思っていないわけですよ。
で、たちが悪いのは「やっている側」というのは往々にして「ダブルスタンダード」なわけです。
「ダブルスタンダード」な人もあふれてますね。
民主主義の根幹の民主制の否定を国会でぶちかますのが凄いわ(溜息)
ダブルスタンダード中のダブルスタンダードな人たちの思考回路は意味不明ですが、自己都合だけの塊というだけですね。
極論言えばミーイズムというものが具現化されたものが「差別」であったり「反民主主義」であったり「暴動」であったりするわけです。
ミーイズムなんてものは人類の歴史そのものなわけですが、そのミーイズムを制限するなりコントロールするなりの手法が人類の文化文明とも言えるわけですよ。
ミーイズムが行き着く先というのは何であるかという事で言えば、これは一つの象徴であり、単純におもろいなと。
「アメリカ」にとってのミーイズムの象徴は人打ち鉄砲ですが、同時にミーイズムを制限する手段もまた人打ち鉄砲なわけです。
合理性なのかもしれません。
ミーイズムとミーイズムの制限なり修正なりコントロールなりという文化文明の関係性という視点で考えると、日本人は如何にコントロールしていくかという事を何百年とミーイズムでの殺し合いの末に妥協点を探し見つけたわけです。
私も『へうげもの』で好きなシーンの一つです。
これは一つの真実で、何ともならぬ事です。
何ともならぬ事を真実と言う、とも言えます。
その何ともならぬ事とはミーイズムです。
豊臣政権→江戸幕府という流れで如何にミーイズムを抑え込むかという施政を続けた結果、260年の平和を獲得しましたが、それをぶち壊したのもまたミーイズムなわけです。
江戸幕府は崩壊はしていませんでした。
自壊でもなく、ただ葵の御紋の効力を失った、という見方が最適解だと思います。
そして御一新でミーイズムをまた新たな形で抑え込む政治体制が始まる、今度は制限制度とでも言うべきものに変質させるわけですね。
それをぶち壊したのは導入しまくった西洋化、つまり国民国家というものです。
国民国家の根幹は国民皆兵です。
国民全体が国家を運営する権利=参政権を持つということは、国民が国家を守る責務も生じるわけです。
武士というものの本質はなめられたら殺す、ともう一つはアウトソーシングなわけです。
日本史における武士の発生は国家運営におけるアウトソーシング事業の推進によって発生したわけです。
アウトソーシング推進によって軍事権を掌握し、その結果で統治権も掌握しちゃったわけです。
江戸幕藩体制とはその集大成ですね。
徹底的にアウトソーシングした結果、武士に全責任が集中するという本末転倒な事になったわけです。
その反動が国民国家となってしまうわけですが、その結果は国民国家である事すら放棄する現体制なわけです。
結局またアウトソーシング事業を推進しているわけですから。
従順というよりアウトソーシングしたいだけでしょう。