自動車評論家の嘘と商売

①自動車評論家は嘘つきである

自動車評論家は嘘つきである。

そう書くと訴訟になるかもしれない。

それに「自動車評論家は嘘つきである」という言葉の反証に嘘つきではないと根拠の羅列が行われるだけだ。

100人の自動車評論家がいて、100の自動車評論があれば、100の評論の中に1つぐらいは真実がある。

その1つをもってして自動車評論家は嘘つきではないと言う事は簡単だ。

では正確に書こう。

自動車評論家は虚実入り乱れた印象操作と情報操作をしている。

なおここで言う自動車評論家とは、自動車メディア関連全てを指す大雑把な言葉として捉えていただきたい。

これらの件に関しては私は今まで散々色々アレコレと書いてきたが、今回は覚書としてまとめておく。

②なぜ自動車評論家は「嘘つき」なのか?

自動車評論家は虚実入り乱れた印象操作と情報操作をしている、つまり「嘘つき」である。

それは意図して行っていると確信しているからだ。

だから「嘘つき」である。

それはとてもシンプルな事である。

なぜか?

先にも書いたように、虚実入り乱れた印象操作と情報操作とは一体どういうことなのかを考えてみればわかる。

ここでは「日本自動車ジャーナリスト協会(AJAJ)」に関して、または実際の「評論」に対しての論評を行いたいわけではない。

論理性をもって自動車評論家またはそれに類する者は「嘘つき」である事を証明するだけである。

まず自動車の評論とは何か?

工業製品である自動車の評論という一つの定義がある。

評論とは、一つの物事の優劣なり価値などについて論ずるという事である。

つまり自動車評論とは自動車の優劣や価値などを論ずるという事である。

では自動車の優劣や価値はどのように決まるのか?

そこがわかれば自動車評論家の評論とは何かがわかるというものだ。

自動車の優劣を考えると、まず工業製品であるからには信頼性であるとか故障率の低さなどが重要であろう。

そして値段と値段に見合った製品であるかどうか、コンセプトに沿った性能が確保されているかどうか。

思いつく限り書いてみたが、それを実際にやろうと思うと難しいものである。

工業製品の評論とは、難しいものだ。

素人には出来ない。

少なくともその工業製品に関しての知識がなければ無理だろう。

カメラではどうか?

カメラ評論家というものはあまり知らないが、カメラマンであるからにはカメラの知識が無ければ仕事が出来ない。

少なくとも職業カメラマンであれば、写真撮影技術の勉強していて当然であり、していないと仕事で不利になるからしているものだろう。

したがってカメラマンであればカメラの知識もあり評論ができる、とも言える。

だいたい写真雑誌などでカメラの論評をするのはカメラマンである。

また他の雑誌媒体やメディア媒体では記者などが論評する事があっても、カメラを扱い知識があるからそれができるのであろう。

趣味のカメラマニア、または写真好きがカメラの論評をするのもカメラの知識=写真の知識があるから成り立つ。

では自動車評論家はどうなのか?

実は自動車評論家で自動車工学の専門家など個人的に聞いたこともないし、いたとしても超少数であろう。

また自動車の専門家でも色々とあるのであろうが、自動車評論家で多いのは元レーサーであろう。

それも全員が全員そうでもなく、いわゆるライターが専門化した、というパターンが多いのであろう。

元トラック運転手という人は見たことがあるが、元タクシードライバーであるとか、元バスドライバーであるとか、そういう運転のプロという人も少ない。

なぜかレーサーであると評論家になりやすいみたいである。

で、問題は自動車評論家に自動車の優劣や価値判断を行えるだけの知識があるのかどうかである。

自動車は構造上、入力と出力がある。

入力とはタイヤを通して伝わる衝撃である。

出力は推進力である。

そして入力と出力が複雑に影響する状況で操作が必要となる。

それらに不具合や問題があるかどうか、それが論理性を持って説明できなければ、優劣や価値判断など出来ないはずである。

例えるならば、乗り心地が悪い、という状況がある自動車があって、その因果関係を論理的に分析し解説できなければ価値判断など出来ないのである。

カメラで言えば写りが悪いと言っても、レンズのせいなのかフィルムなのかセンサーなのか露出の間違いなのか原因というものが分析できなければ何もわからないのと同じであるからだ。

だが、自動車評論でそれが行われていると言えるのであろうか?

足回りがどうとか、書かれていても、その足回りとは一体何がどうであるというのであろうか?

ダンパーがどうとか、そこまで書かれている記事や論評も珍しいぐらいではないか?

ましてやダンパーであろうが何であろうが、それぞれメーカーがあり、実に複雑であるのだが、そういった点を調べて解説できている記事がどれだけあるだろうか?

よくよく自動車評論家の書いた記事を読んでみれば理解できる、実は何も書かれていないのだ。

カメラで言えばデジカメの命はセンサーで、カメラの事を書くならばセンサー性能について調べて書くのが当たり前だが、それがされていない事ばかりなのが自動車評論というものである。

0-100キロ加速であるとか0-400m加速のデータを記載してあるとか、フルブレーキング性能やエルクテストの結果であるとか、そういった実証実験に基づくデータがまったく記載されていないであろう?

せいぜい大して当てにならない燃費と写真を見たら誰でもわかるシートの広さぐらいか。

無論、燃費性能も重要であるが、記載すべき「数字」が記載されている事があまりに少ないと不思議に思うべきなのである。

なぜか「データ」ではなく、「印象」だけが記載されている。

それが自動車評論となっているのだ。

もちろん「印象」でしか書けない事柄も多々ある。

しかし、工業製品という論理性の塊であるモノがなぜか情緒性の塊である印象だけで論評されているのである。

カメラで言えば私が大好きなカメラであるGRシリーズの論評を「写りは最高とにかくエモい大好き最高」などと書いて許されるのであろうか?

駄目に決まっている。

レンズ性能やセンサー性能のテスト結果を踏まえて比較をして初めて論評の最低限の位置であろう。

情緒性を入れ込むと駄目になってしまうのも事実で「GRレンズは広角28mmとしては最高だが、TC1のロッコール28mmF3.5の方が写りが好きだからそっちが最高」なんて書いたら論評が破綻してしまう。

だが、なぜか自動車評論はそれでも許されてしまうのである。

なぜそうなるのか?という「科学」など無かったかのように「印象」だけで成り立たせる事ができるのである。

私はそれを「嘘つき」だと判断している。

印象とは一つの真実であると同時に、再現性が無く立証する手段も無い、つまり非論理である。

したがって自動車評論家が印象を述べても、それが数値や実験データで無ければ、半分の真実と半分の嘘であるとも言えるわけである。

自動車評論家は真実を書きつつ、嘘も書いているのである。

だから自動車評論家は「嘘つき」なのだ。

③全ては操作されるものである

自動車評論家が「嘘つき」だとして、何が問題であるのか?

一言で言えば嘘が真実となるからである。

言い換えれば、嘘を真実とすることは情報を操作することである。

具体的にはネガティブポイントを印象操作でポジティブポイントとすること。

また、ネガティブポイントを隠しポジティブポイントだけを表示すること。

この写真は使い古されたコピペであり、ジョークでもある。

だが、これで解るのは、印象とは何か?情報操作とは何か?である。

嘘と真実は表裏一体とも言える。

表現技法によって印象操作が可能という事である。

例えば「面白い」と「つまらない」との間にはどのような違いがあるのであろうか?

考えればわかるが、あくまで主観である。

つまり人によって違うというものである。

人によって違うものがなぜか一つの真実となるのである。

ここが実は実に重要であり、日本人における外国車信仰=ドイツ車信仰でもあるものの正体がそこにある。

ここでまず重要な事は、主観とは人それぞれであるものだが、主観でしかないものを真実として操作されているのが自動車評論である、という点である。

そこで疑問として持ち上がるのが、なぜ主観を真実として操作して誰も不思議に思わないのか?である。

現におかしいと言っているのは少なくともここに一人、当方がいるが、インターネット上では同じような事は昔から言われてきた(だが疑問を投げかけると妙に怒り出す者や論点をすり替えたりする者がいたりするのも不思議ではある)

主観を操作して真実とする、それに対して疑問を抱かないのはなぜかを考えたら、簡単である。

それが望まれた言説であるから、である。

それを言い換えれば、なぜ操作されるのか?それが望まれているからである、と言うことである。

なぜ全ては操作されるものである、という章題であるのか?という問の答えもそれである。

因果関係で考えていこう。

なぜ自動車評論家が存在し、自動車評論があるのか?

なぜ全ては操作されるものであるのか?

いずれも望まれているからである。

自動車評論家が主観を操作し印象を操作し情報を操作し「嘘」が「真実」なる。

それは望まれているからである。

なぜ望まれていると言えるのか?

簡単である。

望まれるから商売として成り立つのである。

④商売とは何か?

商売とは言い換えれば需要と供給である。

つまり望まれるから作り出すのである。

また作り出すから望まれるというのもある。

鶏が先か、卵が先か、ではないが、とにかく需要と供給である。

自動車評論の需要があるから供給としての自動車評論がある。

では誰がなぜ望むのか?

望むとは利益があるからである。

自動車評論において利益発生とは、評論の結果その自動車の価値が上がる、つまり優劣で優となることで、利益が発生する事である。

つまり自動車評論によって自動車の価値が上がる事で利益が発生する者が望む者であるわけだ。

それはずばり最大の受益者は売り手であろう。

自社の自動車を売りたい側からすれば、自社の自動車の評価を上げたいわけである。

だが全社が全社それは同じであり、売りたい事に変わりはない。

だが実際は評論に関わらず売れる車と売れない車にわかれる。

今の令和の時代の日本で一番売れている車はヤリスかN-BOXかである。

どちらも流石に貶しようもない気がするが、自動車評論家が積極的に褒めているわけでもない。

褒めている人もいるのだが、自動車評論家がこぞって個人的にも褒めているわけではない。

では自動車評論家が褒める車とは何であろうか?

個別の事例は出さないが、ヤリスでもないしN-BOXでもない。

そこに一つの答えがある。

そしてその答えとはどういう意味か答えよう。

神話を作れば商売になる、と。

それは神話の恩恵を蒙っているモノを探すと簡単な話だと理解できる。

⑤価値というクリエイション

一つの神話を作る、つまりブランディングである。

横文字は頭が悪く見えるので言い換えれば、実際の性能差に左右されない「のれん」を作るということだ。

この「のれん」があれば、客観的事実がどうあれ、価値が必ず発生する。

ライカというカメラがある(大雑把な話である)

日本メーカーの一眼レフが電動化され覇権を握ったことでライカは窮地に陥る。

しかしそれを救ったのは「のれん」である。

今日まで脈々と続くライカMシリーズは「のれん」によって守られている。

デジタル化されたとは言え、デジタルカメラとしての性能では本質的にソニーやキヤノンの最新型ミラーレス機を凌駕する事は不可能な性能である。

そもそもレンジファインダー機である時点で比べるのもある意味ではおかしいわけだが、逆に言えばその比べる事がそもそも「おかしい」事を多用していたのが自動車評論というものである。

全ては操作されるものである、という前提で考えれば簡単である。

単純に高性能であるかどうか、デジタルカメラで言えばセンサー性能やAF性能や手ブレ補正などの各種機能やボディの造りやバッテリー性能などなどの性能差があるが、キヤノンのR5とライカのM10を性能で比べたら、その比較はおかしいと言われる。

カメラ機構が違うから比べるな、ライカはそういうもんじゃない。

それは結構。

確かにそうだ。

だが、じゃあ逆はどうなのだ?

ライカM8の素晴らしさを語ろうとする上で「国産」と比べたりはしないのであろうか?

お行儀良くR-D1とだけ比べるのか?

残念ながら、またはやはり、自動車評論的な印象操作的な比較論評はいくらでもある。

そして「のれん」とは印象論であるので、印象論として都合の悪い事実性は排除される。

つまり「のれん」を利用し、「のれん」を守るには「客観的事実」の積み重ねによる論評など邪魔であるのだ。

結果の決まった論評、印象操作、情報操作、それらの積み重ねが「のれん」を守る。

カメラの場合はエンドユーザーが「そんなことわかっていて」カメラと向き合うわけなのでさほど問題もないのかもしれない。

また「如何ともし難いほどの差異」があるわけで、現実的に競合するわけでもない。

むしろ日本メーカー各位における「のれん」を利用したアンフェアな戦いも数多くあったのであろう。

しかしエンドユーザーによる直接的な評価方法が確立されているカメラという世界では、今日的にはもはやあまり意味がない事である。

それに対しての自動車評論というもののエンドユーザーによる直接的評価よりも未だに「オールド」な方法で固定化されている、またはしておきたい、そうしないと「のれん」が守れない。

莫大な数のエンドユーザーが数字を積み重ねる事で客観的事実が絶対化してしまうと、「神話」も「のれん」もあったものではない。

結論の決まった論評で無ければならないのだ。

自動車評論というものは、言わば「のれん」の為にあるのだ。

⑥長いお別れ

コロナプレミオという車があった。

どうしても自動車評論というものを語るには避けては通れない車である。

コロナプレミオは自動車評論家には受けが悪い車であった、と記憶している。

少なくともコロナプレミオをべた褒めするような自動車評論は観なかった。

このコロナプレミオを祖父より譲り受け数年乗るのだが、加速性能は充分満足できるもので、室内は広く使いやすい、シートはふわりとしながらもロングドライブでもストレス無く運転できる、静粛性能も良い、燃費も良い、トランクも広い、言うこと無い車であった。

だが、世間的な評価は芳しくない。

そして自動車評論家の評価も芳しくない。

その原因を突き詰める事にした。

なぜなのか?

私がおかしいのか?

私が客観的事実を積み重ねて評価を考えた結果と、探して出てくる評価に乖離がある。

例えば走行性能で、コロナプレミオはスポーツカーでも無いファミリーカーである、なのでハイスピードでのコーナリングやハイスピード走行自体を重視した造りではない。

そんな事は説明書を読まなくても理解できるレベルの事だが、「評論」では「ハイスピードには不向きな足回り等でよろしくない」とある。

そもそもだ、それが目的でないのになぜそこを取り出して評価するのか、そして当然そうなると評価が悪くなる。

自動車雑誌などの評論を分析していくと、実に簡単である。

自動車は走行性能が高い程評価が高い。

それは分析の結果、客観的事実としてある。

その逆は無いからだ。

アルトバンとポルシェ911カレラRSではどちらの評価が高いのか簡単である。

燃費性能ならアルトバンだが、燃費性能がどれだけ優れていても評論ではさほど褒められない。

そこで私には一つの疑問点が発生した。

数は減り衰退の一途である自動車雑誌並びに自動車評論であるが、そもそもこれらは何を基準に何の評論をしているのか?である。

その結論は先に述べた通りである。

客観的事実ではない、印象論である。

それは「のれん」のためにある。

つまり評論とは結論のための操作であるという事だ。

それが私の発見であり、結論である。

私はコロナプレミオに乗って、自動車評論の全てに長いお別れをした。

彼らの生み出す「のれん」におさらばしたとも言える。

格好よく言えば神話の終わり、平たく言えば現実が見えたというわけだ。

見えてしまえばこれほどバカバカしいものはなかった。

そしてそんなバカバカしいものを本気で信仰していた自分に無性に腹がたった。

しかし別れてしまえばこれほどすっきりするものものない。

実に良い別れだ。