映画秘法『鮫肌男と桃尻女』71点または81点
オジ(‐◎✹◎‐) サン流映画秘法採点「71点」または「81点」
また1999年ということでありますが、とりま90年代ぽさというものってここいらで集約されるわけです。
なんていうのか、なんとなく90年代ぽいって感じっていうね、アレね。
オジ(‐◎✹◎‐) サン的には90年代って子供から大人になった年代で、いや~思い返したら濃厚すぎるんですよね90年代。
90年代前半ってバブルからのバブル引きずり時代で、90年代後半は経済不況からのミレニアム突入なわけですよ。
前半はファミコンにVHSだったのに、後半にはもうPS2だのDVDだのって話ですよ。
99年なんてiモードに2ちゃんねるですからね。
で、90年代ぽさって何かって言えば、実はよくわかんない。
なんせ90年代前半なんてジュリアナでアッシーメッシーシースーベーターなわけですからね。
だけど一貫しているのが、アンダーグラウンドであるとかカウンターカルチャーであるとかサブカルチャーが完全に主流化していく流れですね。
ゲバラのTシャツにパルプ・フィクションのポスターね。
オジ(‐◎✹◎‐) サンの街で生まれたヴィレヴァンってまさにオジ(‐◎✹◎‐) サンの中で90年代そのものなんですよね。
はじめてヴィレヴァンに行った時の謎の高揚感、トーキョー的なものの中で謎であった世界がなぜか名古屋で平然とあることの高揚感と、こんなものか感と。
ああいうのが90年代的なものだと感覚的にあるんです。
結局は我が国におけるアングラ、カウンターカルチャー、サブカルチャーというものは、全てトーキョー的なハイソでオセンスの良いものであったわけです。
だけれども、それがとてつもなく憧れにもなったわけでしょ?
未だにその共同幻想があるわけでしょ?
やはり越えられない壁があるわけでしょ?
文化資本というものは、人類にとっての贅の極み、サブカル的なものとはその極地とも言えるわけです。
90年代バブル経済によって生み出された信用経済のパワーは、トーキョーの文化資本というものを膨れ上げるだけ上げたわけです(その幻影に振り回されているのがネット言論であるよ)
地方では美術館だ何だってのを作ってる間に、トーキョーでは人をつくれたってことです。
要は何でもいいからクリエイターに金だして何か面白そうなものを作らせることが出来たわけですね。
それが90年代のあの謎の輝きなわけです。
その流れの一つがこの『鮫肌男と桃尻女』です。
まぁ、アレです、安っぽいことは安っぽい、金のない時代に金をあまりかけずに作ったわけですから。
だけど贅沢なんですよ、ある意味で。
今のクリエイターだったらもっとCGやら使って無駄なくそつなくやることを、その逆の「なんとなくこういう方がかっこいいしオサレだしわかってるぽい」みたいなところをやってるわけです。
今の時代の目線で観ると、ダサ感があるよなって思うのですよね。
だけど、このダサ感はあの時代のあの空気感の良さの集約でもあるわけですね。
だから71点あるいは81点なんですよ。
映画のストーリーとしては原作の流れそのままで、ラストとか演出は全然違いますが、頭使う内容でもないのでまぁ良いでしょう。
だから問題は常に空気感、雰囲気、そういうものになる映画です。
で、キャスティングでだいたいわかるでしょ?みたいなノリもあります。
すっかり良い俳優然としてしまっている浅野忠信がまだ若くて危なそうな空気感の時代で、逆に何も言うことはありません(それにしても『いだてん』のあの演技が最高だったのを思うと若い頃は…)
ヒロインがあのココリコ田中の元嫁なんですね、知らんかったけど。
そこらへんは実はどうでも良くて、岸部一徳に鶴見辰吾に我修院達也に堀部圭亮に島田洋八に関根大学にって・・・完全に空気感ですよね空気感。
岸部一徳出せば何となくわかってる感が出まくるのと同時に、逆山崎努効果で悪役なんだけどかっこ悪いし不気味でなぜか強キャラ感がある、みたいなね。
サブカル好きの妄想で作る映画の悪役というのかなんかよくわかんけど重要そうな役には岸部一徳ですね。
鶴見辰吾ってイメージ的にはもう全然違うんですが、この映画の鶴見辰吾は時代性とか空気感が理解しやすくなるキャラですよ。
我修院達也の使い方とかもね、今見ると痛い演出だけどこれが空気感ってやつです。
堀部圭亮は個人的に『平清盛』での好演の方が印象深いんですよね。
まぁ音楽も含めて空気感なんですよ、全て。
なんとなくクリスタルボーイの成れの果てにあるものの空気感が味わえる、それがこの映画の素晴らしいところですね。