映画秘法『パルプ・フィクション』99点
オジ(‐◎✹◎‐) サン流映画秘法採点「99点」
文句なし99点。
『パルプ・フィクション』です。
とりあえずタランティーノ作品から抑えておきたいのがオジ(‐◎✹◎‐) サンの年代なんだよ。
そして『パルプ・フィクション』こそがタランティーノの名を不動のものにしたわけだよね。
散々今までに語られてきたものだから、オジ(‐◎✹◎‐) サンが何も言うべきじゃないけど、まず一言いわせてほしいのが『パルプ・フィクション』は真剣に観れば観るほどわからなくなるぞ君たち。
この先この映画はどんどん理解されなくなるだろうね。
カウンターカルチャー、ポップカルチャー、古き良きアメリカ。
それがどんどん理解されない時代が来る。
確実に来る。
もう来てる。
キテルキテルエレキテル。
だからこそオジ(‐◎✹◎‐) サンは残しておきたいオレ様の思うところを。
なぜこの映画があるのか、それには理由があるわけだ。
その理由こそ、これこそがレガシーだからだ。
これ観ればかつての良き時代良き文化がわかるように出来ている。
理解はされなくとも、こういう時代があったんだとわかる。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』も同じ構図だ。
レガシーなんだよ、タラオの。
良いものを作るってそういうことだよな。
法隆寺がかつてのスピリットそのものであるように、これもまたスピリットそのものなんだよ。
細かい事は書かない。
それより大事なところだけ、スピリットであることだけが重要だ。
映画って細かいところが大事な映画と、マクロ的なところが大事な映画があるんだよ。
『パルプ・フィクション』は細かいところが注目されがちだけど、オジ(‐◎✹◎‐) サンはその逆がこの映画の大事な点だと思う。
マクロで考えよう。
なぜ『パルプ・フィクション』であり、それが大事なのかと。
そう、クドクド書くがスピリットだよ魂だよ。
この映画には魂があるんだよ。
低俗だの何だのと叩かれる要素を詰め込んでるわけだけど、魂があるから超名作なんだよ。
魂とは何かと言えばクェンティン・タランティーノが「俺はこれが大好きなんだ」って世界の中心で叫ぶから魂がこもるわけだよ。
単なるオサレ演出とかじゃなくて、ガチでこういうの好きだ俺様ってのが観たらわかるからカッコヨなわけだよ。
だから『パルプ・フィクション』を表面的に真似してもダサくなるだけだろ?
それは「こうすればオサレなんだ」って解釈が入るからで、それやったら当然ダサくなる。
他人から観て世間から観てくだらないものや古臭いものや忘れられたものでも、良いものは良いと憚ることなく叫ぶからこそ価値が生まれるんだよ。
『パルプ・フィクション』はオサレ感のあるアングラ臭というのかサブカル全開というのか、何かそういうものの一つの象徴的なものではもう無いんだよな。
全力で好きなものを叫んだら、次世代に残すべき記憶遺産になっちゃったわけだよ。
逆に言えばそれだけ色々なものが失われたわけだね。
たかがタバコ一つ吸えない世界になりつつあって、もうオープニングのあのシーンを現実では出来ないんだよ。
それだけじゃないだろ?
タランティーノだけが今でもギリ許されている表現技法ってあるじゃないですか。
もうどんどん出来なくなっていくわけじゃないですか。
そうなった時代にこそ『パルプ・フィクション』ってのは逆に輝くわけだよ。
何で今はこれが出来ないのか、自分たちが失っていったものとは何か?というのを映画一つで示せるのは凄まじい事なんですよ。
あの時代にこの映画出来て、評価されて名作となれた事はちゃんと意味があるんだよな。
映画としてオジ(‐◎✹◎‐) サンはどこが好きかと言えば、この映画は観終わった後がひたすら心地よい。
感動とか興奮とかと別の心地よさ、それに尽きる。
これに近いのは『マルサの女』『カリオストロの城』あたりもそうだな。
オジ(‐◎✹◎‐) サンの99点の映画って基本観終わった後の心地よさがあるものだったりする。
100点はかなり特殊で、完全に思い入れと完璧さで決めるのであるが、まぁこの先出るかもしれないし出ないかもしれない。
100点と99点の差ってのは優劣というよりも、たぶんアフターの感じなんじゃないかね。
96点以上はおそらく優劣じゃないな。
言語化しにくいけど、何かオジ(‐◎✹◎‐) サンの中で区別するものを点数化したらそうなるという感じ。