失敗の本質の戦争への道のいちばん長い日
令和四年は戦後77年目である。
戦後77年で何がどうなったのか?
相も変わらぬ様相であるのが、戦争原因追求論である。
なぜ相も変わらぬのか?
そりゃだってお前さん、わかっててもわかっちゃいけないからだよ。
なんでだって?お前さんも随分と野暮な事を聞くもんだね。
聞くだけ野暮、野暮天は谷保天満宮。
さて、お立ち会い。
本日令和四年の八月七日に当方思う所ありて書き記したるは「なぜ先の大戦が起き敗北へ至ったのか?」という問いに対する極限まで収斂し尽くしたるシンプルな結論でござい。
東西東西。
東西線は東横線の常磐線。
これぞ戦争論の行き着く先か、ゆきゆきて、神軍か。
さぁさぁお立ち会い、寄ってらっしゃい見てらっしゃい、ラッシャー木村はインド人。
世間のケチでチンケな連中と違い当方完全無料の出血大サービス花びら大回転となってございやす。
①大正デモクラシーの華麗なる失敗
まずもって昭和の歴史を語るには明治の御一新以降をどう捉えるのか?に尽きるわけです。
明治の御一新とは、反帝国主義の為の反帝国主義戦闘用帝国主義国家樹立なわけです。
御一新から遡ること13年ほど前のこと、老中阿部正弘はペリー率いる小艦隊の旗艦サスケハナ号の主砲のライフル砲の射程距離まで調べ上げていました。
つまり末期の江戸幕府でも西洋事情というものはオランダを通じて仕入れられていた、特にロシア帝国というものが現実的な脅威であるという認識はすでにあった。
なので御一新はなぜ起きたのか、というものの根底には「安全保障」があるわけです。
そこが重要地点の一丁目一番地。
国家安全保障問題によって明治維新が起きた。
それは西洋帝国主義によるアジア侵略または帝国主義的グローバリゼーションによる交易路拡大によって神州日ノ本大八洲が安全保障の危機に際したからであるというのが合理的かつ現実的な要因であることは間違いないのです。
それから数十年、日清日露戦争と地政学的に最大の脅威の二大巨頭を打倒し、帝国主義的グローバリゼーションに対抗して富国強兵からの安全保障対策戦争と言うべき大陸における対外戦争を勝利で乗り切った「日本」はまぎれもなく世界の中の強国側のポジショニングが出来たはずでした。
しかし坂の上の雲まで来てみたら、雲なんて所詮は雲に過ぎず、腹が無駄に減るだけであったわけです。
米本位制つまりは土地本位制であった江戸時代は遠い日の歌。
気がつけば金融資本主義すら跋扈する魑魅魍魎の資本主義世界となったのが19世紀末から20世紀の初頭なわけです。
ここで坂の上に立って考えたわけです「ここまでやってきたけど結果は正しかったのかどうか」と。
現実を見れば経済規模は拡大したし、技術は発展した、しかし増える税負担と戦後の反動的な不景気。
相変わらず女衒もいれば、色街もある。
白米を食ったことがない若者が兵隊になってはじめてたらふく米を食う。
そんなことが現実として変わらずあるわけです。
御一新したら何もかもがよくなる、または我慢して坂の上までくればきっと良くなるさおっかさん、と思いきや、世の中は世の中で相も変わらぬものであるわけです。
だけども、それでも、デモクラシーならば、デモクラシーならなんとかしてくれるに違いない。
大正デモクラシーとは民意の政治、つまりここでは薩長藩閥政治や明治の元勲政治ではなく、能力などが優れた人間が民意を盾に政治権力を握る、ひいては国民国家として強国を目指すというもう一つの御一新なわけです。
そう、御一新さえすれば、デモクラシーさえすれば、何もかもが上手くいく・・・はずだった!!
デモクラシーによってより強い国家、普通選挙と国民皆兵と富国強兵を推進しまくれば、上手くいく、上手くいくんだいと徳富蘇峰大先生もそうおっしゃっておられる…ッッ!!
アジア初の普通選挙が大正14年(1925年)制定され、大日本帝国はこうして大正デモクラシーという大花火を坂の上から打ち上げたわけです。
それから数年間、二大政党によるデモクラシー政治が全てを上手くやってくれるはずだったのです。
主な出来事
1926年昭和元年 大正天皇崩御 昭和に改元
1927年昭和2年 昭和金融恐慌
1928年昭和3年 第16回総選挙(初の男子普通選挙)
1929年昭和4年 世界恐慌
1930年昭和5年 ロンドン海軍軍縮会議
1931年昭和6年 満州事変
1932年昭和7年 満州国を建国 五・一五事件
1933年昭和8年 国際連盟脱退
1934年昭和9年 陸軍青年将校がクーデター計画容疑で検挙される(士官学校事件)
1935年昭和10年 天皇機関説事件
1936年昭和11年 二・二六事件
1937年昭和12年 盧溝橋事件 日中戦争勃発(支那事変~1945年)
1938年昭和13年 国家総動員法が制定
1939年昭和14年 第二次世界大戦勃発
1940年昭和15年 日独伊の三国同盟が成立
1941年昭和16年 日ソ中立条約締結 真珠湾攻撃 太平洋戦争開戦
二大政党制による民主主義政治は事実上五・一五事件にて完全崩壊が確定するわけですが、結論から見たら大正デモクラシーは失敗であったと言えるわけです。
正確には、アジア初の普通選挙による民主主義政治は大成功であったわけですが、その結果は大失敗であったのです。
なぜかと言えば、大正デモクラシーは明治維新以後に起きた新たなる御一新が本質であり、その御一新によって行われた政治の結果は日米開戦であり敗戦までのルート確定であったからです。
その要因は、明治憲法体制と普通選挙による二大政党体制の相性が最悪、マッチングアプリならまず弾かれる程ミズトアブラハイム、ガソリンプールの上でガソリーヌ山尾のファイヤーダンス、火薬庫で平野レミの料理番組、志村けんのコントに登場したダチョウ倶楽部で押すな演出からの全回転確定演出リーチ並の信頼度で破綻大当たり20連チャン(要出典)
まぁやるんなら憲法そのものを作り直すべきだったわけですが、それはまた別のお話今度お聞かせしましょうと青森伸さん。
大事な点は、あくまで大正デモクラシーが明治維新以後の分水嶺であり、その分水嶺の結果が第二次大戦であったということです。
②軍部、暴走すべし
現代の歴史教科書的なるものに書かれがちな一節が「軍部の独走」であるとか「軍部の暴走」です。
結論として軍部が独走や暴走したから戦争になった、という「軍部悪玉論」です。
大体世の中の歴史というものの本も主眼は軍部の独走と暴走に関して、そしてそれらが失敗であった事を結論として書かれているわけです。
しかしそうなると大正デモクラシーとは何であったのか、という謎が発生するはずなのです。
なぜ軍部が暴走したのか、だいたいの原因は政党政治が云々とあります。
じゃあ軍部が暴走して戦争になった原因は政党政治じゃないか、と言うと怒られます。
なぜなら政党政治つまりデモクラシーは正しいからですね。
そうしないといけないのでしょう。
誰も大正デモクラシーのせいで戦争が起きた、なんて書いていません。
原敬や加藤高明のせいだ、なんて書いていません。
二大政党制が悪いんだ、とも書いていません。
大正デモクラシーの結末は何かなんて教科書読んでもわからないでしょ?
だって大正デモクラシーとは何か?というものが教科書では理解できない、そもそも明治憲法すら理解できないように作ってあるわけですから。
しかし先に書いたように、歴史の分岐点、つまり日本国の分水嶺は確実に大正デモクラシーの中にありました。
その結果が昭和一桁の歴史です。
なので軍部が暴走したのも、その中に理由がある、と考えるのが自然なのです。
では軍部、つまり帝国陸海軍では大正デモクラシー以降何が起きていたのでしょうか?
その象徴は「海軍軍縮」です。
つまり第一次世界大戦以後は平和の時代、だと思いこんでいた時代なわけです。
そしてもう一つの鍵が「世界恐慌」です。
これで世界は貧乏まっしぐらになります。
我が国もそうです。
領土は増えたのに貧乏、さらに東北では大飢饉が発生して娘を身売りするわけです。
帝国陸軍の小隊長は士官学校を出た若き少尉で、その部下も若き兵士です。
部下の兵士の妹が身売りされる、東北では大飢饉、そんな話を涙を流しながら上官たる若者は聞くわけです。
そこで考える事は、何かがおかしい、ということです。
明治維新以後、帝国陸海軍は華々しい戦果を上げた世界に誇る軍隊であり、大日本帝国は領土を広げ正しい事をやっているはずなのに、なぜ東北の者がこんな江戸時代みたいな事になっているのか?
どんなバカでも不思議に思うことです。
昭和の帝国陸海軍は航空母艦の本格配備まで始める世界最先端の軍隊であるのに、大日本帝国は北は樺太から南はグアム・サイパンまで領有する文字通り大帝国となったのに、相変わらず江戸時代みたいなことになってしまっている。
なぜ、貧乏なのか?
なぜ、食うに困るのか?
実はこんなことは考えても簡単に答えは出ません。
令和最新式の検索すればデータが出てくる、という人類の歴史としては異常事態になったのはまだ20年ほどのこと、当時は難しい事を考えるのも難しいわけです。
そこで「暴走」が登場するのです。
暴走しかないわけです。
なぜなら暴走させたからです。
何がって?
野暮なことを聞きなさんな。
貧乏が憎い、それに尽きるわけです。
妹を身売りして涙を流す部下がいる、だけど命を預かる上官として何もしてやれない、お前さん日本人としてなんとかしてやりたいってのが人情ってもんじゃございやせんか?
寅さんだって決起するよ、な?
その結果はどうなった?
それが二・二六事件以後である。
軍縮は世界の軍事バランスのアンバランス化をもたらし、恐慌は世界に貧乏を振りまいた。
同時に共産主義は侵犯し、世界の平和などカリソメにすぎないものであった。
大正デモクラシー以後の政党政治の崩壊は政治体制の無責任化を招き、大政翼賛会を作ってはみたものの近衛文麿が盛大にその無責任さを発揮して国家革新など夢のまた夢であった。
そんな中で誰も東北の苦しむ者を救う者は現れなかった。
③我ら、かく戦えり夏
あの日本のいちばん長い日に、参謀本部にいた面々は何を思ったのか?
あと少し、と考えていた者はいるはずなのだ。
ソ連は海を渡れない、海を渡れるのは米軍のみ。
かつて海を渡ってきた者はどうなったのか?
口惜しくて地団駄を踏む心地であったのではないか?
さて、大事な事は結論を完結に、だ。
ここまでで大正デモクラシーの失敗があった、軍縮と恐慌によるアンバランスの時代がきた、そして軍部は暴走させられた、東北や日本の貧しい者は置いてきぼりであった。
結論はすでに出ているように大正デモクラシーの失敗からはじまる一連の失敗です。
その最大の象徴は東北の貧しい農家の娘を身売りさせることを止められなかったことです。
つまり経済対策です。
これに尽きるわけです。
そこに気がついていれば、海外の領土に投資する分を東北に投資しておけば、もっと金融緩和政策が出来ていたのならなば、ひょっとしたらひょっとすると言うことです。
軍部の誰それさんが悪い、政治家の誰それさんが悪い、日本人が悪い、そういうのは簡単です。
しかし、二元論的な勧善懲悪だけでは何もわかりません。
そこが戦争と国家の本質でしょう。
④終戦のローレライ作戦
なぜ戦争責任論が未だにあるのか?
なぜ議論に決着がつけられないのか?
簡単である。
大正デモクラシー以後の政治的な失敗点をまったく顧みずに、軍部の暴走だけで話を終わらすからですよ。
軍部が暴走しました、残念ですねーはいちゃんちゃん、とはならない。
軍国ガーファッショガー反省ガー過ちガーとなる。
しかしいくら反省したとて、もう軍部は無い。
反省する主体が無い。
国民が反省する?軍部が暴走したから戦争になって負けたんだろう?違うのか?
そうだ、なぜ終わらないのか簡単だ。
軍部が悪いとするのなら、軍部はとっくに消え去った。
軍部とて国民である。
ならば国民が悪い。
国民が悪いのなら、国民が悪いと教科書に書かねばならぬが、それをやると怒られるからできない。
畏れ多くも天皇陛下に責任がある?ということは軍部も国民も関係ないということか?
つまり誰も責任を取りたくない、というより取るつもりがないわけです。
東京裁判は終わったぞ、サンフランシスコ講和条約も成立したぞ、沖縄も本土復帰したぞ。
これ以上何をやることがある?
なぜか未来永劫続く反戦的反省がある。
それのルーツはまた別問題なので省くが、要はGHQがそうあれかしと望み生まれたローレライだ。
永遠に続く呪いのローレライなのです。
誰が何を反省するのかもわからないまま、ただひたすら反戦のお題目の中で軍部が悪い戦争が悪いと呪われ続けるのです。
それが、戦争責任論の無責任さの本質です。
無責任だから永遠に終わらせられない、だから誤憲で護憲し続けるしかできない。
なぜ憲法九条如きがかくも神格化されるのかと言えば、要は戦争責任論が無責任だからですよ。
あえて言おう、責任は皆に有ると。
なぜなら日本国の話だからです。
憲法に国民主権を謳う以上は、責任は国民にあるのです。
え?大日本帝国憲法?なにそれ?おいしいの?
大日本帝国憲法下での出来事ならば、それに従うべし?
そうか、ならワシらはもうええんじゃな?反省もいらんな?だって日本国憲法だし。
え?反省しろ?なんで?やったやつが反省しろよバカ。
なんでやってもないこと反省するんだよバカ。
つまりだね、君たち、実にバカバカしいとは思わないかい?
何のために歴史を学ぶんだい?
使うためですよ、知識を。
そのために過去があるわけです。
反省したくてたまらない人は反省していればいいだけですね。
大事なことは、我々は常に自由であるべきなわけです。
そのためにはいい加減にローレライに引導を渡すべきなのですよ。
⑤反省なんかするもんか
反省なんかするもんか、とかつてある漢が言い放った。
そう反省なんかするもんか、それこそ我々が学ぶべき人生哲学なのです。
反省したところで覆水盆に返らず。
せいぜい反省したら何か良いことした気になるだけなのですよ。
だったら墓参りでもしたほうが有意義ってもんでござんしょ?
先にも述べましたが、反省するものの主体と主題が実は何一つ不明瞭なわけです。
過ちを繰り返しません、というものの欺瞞性もそうでありましょ?
誰が何の過ちを繰り返さないのか?
その欺瞞性は日本国憲法前文に集約されています。
以下以前の記事からの引用(https://agwwbnr.com/2020/08/30/%e5%b1%95%e6%9c%9b2020-08-30/)
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」九割どうでも良い事が書いてあるわけですが、何を勘違いしているのか「平和」という適当な概念がやたら出てきますね。
平和ってなんですか?って事です。
平穏無事、というのなら理解できますが、平和ってのはよくわかりません。
戦争状態でなければ平和なんでしょうか?
ピンフでしょうか?
リータンピンドラドラぐらいになると平和ではありませんね。
ウラが乗れば地獄ですよ。
直撃で死ねますね。
閑話休題
重要な事は動詞です。
動詞を見ていけばどういう意味なのかわかりますね。
細かく観ていくとメンドイので大まかにですが、早い話が我々日本国民の平和と生存は「決意」だけで、名誉ある地位という謎の国際的地位は「思う」だけで、全世界の皆様方の平和は「誓う」、という事です。
アホかと思うのは私だけですかね?
日本国民の平和と生存は日本国民全員によって義務的に必ず確保すると書くべきでしょう。
名誉ある地位というのは一体何なのか謎ですが、思うぐらいならやめとけです。
全世界の皆様方の平和は暇な時に願っとくわ、ぐらいでいいでしょう。
前文からしてアホ全開ですから、そりゃ読みたくても読む気はしませんね。
ひょっとしたら読ませたくないからわざとアホ全開な前文なのかもしれませんね。
崇高な理念?崇高な理想?だったら「いろいろ書いたけど、そうなるといいなと思う」ぐらいにしとけボケが。
日本語の使い方から鑑みるに、おかしいわけです。
でもおかしいと言ったら叩かれちゃうのです。
怖いですよね。
ガチの宗教でもそんな事ないんですよ。
疑問から真理に至るわけですから。
あ、これ、カルトか。
閑話休題
で、誰もが素晴らしいと信仰しているのは、要するに国民様の権利を保護してくださっているありがたやだからです。
まぁそう言えばそうで、憲法という盾は最強カードなわけですね。
MGTで言えば壁ですねウォールね。
要するに防御だけなんですよ。
壁はそれで良いのですが、攻撃できなければ負けというのがMGTです。
つまりコロナ騒ぎでの自由権問題なり、オウム真理教という名前のテロリストに対しての破防法騒ぎなり、ああいう時に「壁」が邪魔をするわけです。
コロナ騒ぎは確定していない事柄も多いのでさておき、オウム真理教に破防法を適用しなかったのは憲法を盾にバカアホ間抜けが騒いだからです。
裁判所がどう言うのかで変わったとは思いますが、政府行政が破防法適用に慎重になったのだけは事実ですね。
だけどね、オウム真理教ってテロ集団ですよ実態は。
そこらへんは散々まともな有識者に証明されている事ですので割愛ですが、大まかに言うと当事者がそれを証明した点があって、オウム真理教の教理学は「虹の階梯もろパクリ」って当事者が言ってますからね。
それは宗教とは言いません。
実態としてLSDを使って洗脳だの、麻薬密売だの武器密輸に密造だのです。
それは立派なテロリストと言うもんです。
あと他にもテロリストとしての証明内容はいくつもありますが、割愛です。
メンドイのとメンドイすぎる事柄がありますからね。
で、どこに出しても立派なテロ集団が世界初の化学兵器テロをぶちかましたにも関わらず破防法一つ適用できないってのが憲法効果なら、これは欠陥憲法なわけですよ。
前文意味無し夫君ですよ。
平和と生存ぜんぜんできてないじゃんね。
それでも憲法ガー憲法ガーなわけですよね。
これって一番性質の悪いカルト宗教ですよ。
何の疑念も疑義ないわけでしょ?
LSDでも使ってるんですかね?
やばい一億総ニューエイジ。
西海岸の風ですね。
これって根が深い問題なんですよ。
憲法を信じ切ってるわけです。
だって、ただの法律ですよ。
何ら絶対性が無いものです。
だけど法律しか信じられないようになってますね。
正しさの担保が法律にしかないのが現在現況の正しき日本人民の姿です。
これって怖い事ですよ。
単なる法律ならアップデートできるので良いんです。
だけどアップデートするなって言うのが憲法なんでしょ?
その怖さって異次元だと思います。
宇宙的怖さですね。
クトゥルーですよ、もはや。
冷静に考えてみましょう。
多くの人が読みもしないものを信仰しているのです。
これって異常事態ですよ。
せめて読み聞かせしたら良いんじゃないですか?
憲法大好きオジサンオバサンが教員には多いでしょ?
だったら読み聞かせしなさいよ。
そして疑念や疑問を生み出しなさいよ。
それが教育というもんでしょう。
あ、やっぱり下手に知られると困るのか。
https://agwwbnr.com/2020/08/30/%e5%b1%95%e6%9c%9b2020-08-30/
憲法前文だけでこれだけの欺瞞性を持つ、それは理想主義とかのレベルじゃないわけです。
実際問題現実との矛盾点だらけになっていくわけです。
しかし反省しなければならない我々は、その矛盾点すら解消する力を失っているわけですね。
反省し続けることが憲法を守り続けることと同意義になってしまったのが戦後の「カルト」の姿です。
そのカルトにはまると思考停止の中の「平和」という地獄の沼にはまりこむわけです。
その沼を抜け出すために、反省なんかするもんかの思考回路が必要なわけです。