展望2020.05.04
人類史で見ると、人の密集した都市文明が「異常」——研究者が語る、新型コロナとの対峙
人類の「誤謬」の始まりはどこだったのか。
都市文明の時代までに言葉・言語は確実に存在していて、どうもネアンデルタール人と現人類が分かれる前にすでに存在していたんじゃないかと言われてます。
都市文明の大本は結局は集団生活であって、集団生活は言語によって成り立つわけです。
この「言語」が人類が持つ「誤謬」を生み出したのだと考えます。
極端な話ですが、佛教というものを観ていくと、この「誤謬」をどうするのかってところが出発点とも言えるわけです。
生存する事が「苦」を生み出すという認識、これが誤謬なわけです。
本来動物なり植物なりは生存していて「苦」と認識しているのかどうかすら、我々にはわからないわけですよ。
言語を持つ人間だけが「苦」という事を認識できているわけです。
「苦」というものは不快であるとか苦痛とは違ったものであるからですね。
「苦」とは言語的なものなのです。
生存サイクル=輪廻が苦の再生産だとお釈迦様は考えて、そこから脱却する事が佛になる=悟りだと定義したわけです。
その脱却するためにどうしたら可能なのかというのは現在となっては言語化できないわけですが、「苦」そのものが言語的で分解可能であるという捉え方であったとは言えるわけですね。
分解できるということは「苦」そのものが「有る」というわけではない、という事です。
そして言語全てが分解可能なわけです。
「青い空」という言語自体を分解していくと、青いという形容詞と空という名詞に分解できますが、この「青い」というものは人それぞれ思い浮かべる「青い」は違うわけです。
「青い」というのは状況なわけで、その状況は常に違うわけです。
そしてそもそも「青い」という定義自体がいくつもの状況を含む事ができる言葉であり、つまりは分解可能=本質的に存在するわけではない、というわけですね。
仮にそうあるもの、という事です。
「空」という言語もそうであって、仮に「空」とされている状況を「空」と定義しているだけです。
それを集団で共有する道具が「言語」という事です。
何もかもが仮に定義した状況である、という事ですので「差異」を内包したままであるという事です。
その「差異」が「誤謬」の源という事です。
なので我々人類は「苦」があるという「誤謬」を認識している存在だと言うわけです。
そして人間が何かしらの方法で「苦」という「誤謬」誤った認識を分解消滅ささせる事が可能だろうというのが佛教なわけです。
佛とは佛教とは何かという事が現在ありとあらゆる本なり知識なりとして「言語的」に存在していますが、誰一人として「佛」としては存在していないという事はなぜかと言うと、言語的な苦を分解し悟りという状況にたどり着いた先が非言語的な存在だからです。
神秘とか奇跡という言語的なものではなく、非言語的な我々人類では認識不可能なものが「佛」というもので、お釈迦様だけが今の所完全に佛となったと言われているのですが、それがどういうものなのかは佛にならないとわからないわけです。
つまりわからないものはわからないという事です。
やれパーリ語だサンスクリット語だ漢語だと佛典が数多あれども、非言語的なものを言語化する時点で誤謬を内包したものなので、それはどうあがいても「佛」そのものを説明はしきれないわけです。
佛そのものを不可称不可思議不可説と言いますが、逆に言えば我々というものは「言語」という「誤謬」を常に抱きかかえたまま生きているという事だけは事実なわけです。
またまた逆に考えていくと、言語という誤謬を使い続けるということは集団の維持であり、都市文明の維持でもあるわけです。
この誤謬を常に抱きかかえていないと我々人類は成り立たないとも言えるのです。
これはコロナ騒動を考える上で重要な事で、コロナ騒動において我々が壮大に大間違いをしている点、これは「正しい事を行えば正しい結果が返ってくる」という事ですが、我々の認識そのものが「誤謬」を抱きかかえたものである以上は「正しい」という事は仮であり差異を含み誤謬であるわけです。
なので「正しい事を行う」という事も「正しい結果が返ってくる」というのも「壮大な大間違い」となるわけです。
私はIT技術そのものを使いますが、それがこの先どれだけ進化したとしても想像されている「ユートピア」は絶対やってこないだろうなという派です。
ITも言語である以上は人間の持つ誤謬を避けられないからですね。
その一つが完全自動運転車による事故の責任云々でしょう。
これが「有り得ない」という事が「有り得ない」わけで、「有ったとしたら」という事を考えると「無責任」という事にもならないわけです。
本来的に考えられていたITなり機械化文明というものは「機械は間違えない」という「前提」があるわけですが、実際にそれは「絶対」ではないと現実的にも認識されているわけです。
物理的に言えば「故障」ですね。
そして概念的に言えば「絶対」というものが有り得ないという事です。
実際問題としてこの事故が起こってどうなるかって考えたら、まぁメーカー責任にするのが政治的解決方法になりそうですが、大事な事はその責任構造ですよ。
つまりどれだけ進化しようが何しようが人間世界というものの法則に縛られるという事です。
あまり言いたくはないですが、結局は何をどうやっても頭の良い人の考える事のイレギュラーが存在するわけですよ。
それが理想論であろうが現実論であろうが。
今回のコロナ騒動で兎にも角にも「こうするべき」論が出まくっているわけですが、「すべき」という「正しさ」が尽く崩れるのがコロナ騒動であり、そもそも「正しさ」の担保などなにも無い(=誤謬)というのがはっきりしちゃったのがコロナ騒動なわけです。
くどくどと「誤謬」という事を書いておきますが、つまりは「本質的に正しい事など、無い」と我々は認識しておくのが重要だという事です。
つまり明日どうなるかなんてわからんわけですよ。
「本質的に正しい事」があるならば、明日何が起こるかという事もわかるって事です。
我々には「予想」しかないわけですよ。
まぁ「予想」するならば、トランプ大統領はこうしなければならないのだろう、という事ですね。
ガバガバすぎる話なので草というのか何というのか。
新型肺炎・コロナウイルス感染症|感染者数・致死率・初期症状・免疫
↑新型武漢コロナウイルス感染症に関してはここ観たらだいたいわかるわ。
根本的にコロナウイルスそのものと、それが巻き起こす騒動は別物なんです。
いろいろ読めばわかるのが、要するに「新型」だという事が重要なわけです。
つまり今までにない事が起きている、という事ですよ。
基本再生算数がインフルエンザ並であったとしても、毒性でインフルエンザ以下だったとしても、ここまで広がり影響を与えた事実からインフルエンザとは比べ物にはならない「毒性」があったわけです。
そこを間違えるとひたすら「トンチンカン」になっていくのですよ。
これもまた「誤謬」の成せる業なわけです。
理系だろうが文系だろうが「言語」である時点で実は根っこは同じなわけです。
そこを壮大に勘違いさせているのが現在のシステムなわけです。

R0=2.5であろうがR<1であろうが、人間様須らくコロナになりたくない病なわけです。
つまり「病苦」なわけです。
これは「数字」ではどうにもならんもんなのです。
ね?病苦でしょ?お釈迦様の言う通りだね、それだけです。
言っしまえば病苦に尽きるわけですよ、コロナ騒動ってのは。