展望2020.04.30

先日の続きみたいなになりますが、人というものが思い込みの動物であるという点です。
これが重要というのは、数千年前から変わらない事なのです。
我々には想像力というものがありますが、想像力とは言語思考である限り、言語の限界が思考の限界というウィトゲンシュタイン的な事が事実としてあるわけです。
最重要というのはこの事でありまして、実はそんな事誰も考えて生きていないわけです。
自分自身の思考には言語的限界がある、という事を認識はできないように人間は出来ています。
希望的観測という言葉がありますが、我々は希望的認識を持って生きるように出来ています。
つまり「次の瞬間死ぬかもしれない」という事は言語的に認識できるようで、出来ないように出来ています。
拷問の方法に、実際はナイフで切ってもいないのに、血が滴り落ちる音だけを聞かせていると、実際に血が流れていなくても血が流れ落ちていると認識して、衰弱して死にまで至るという拷問があるそうです(本当の話かどうかはエビデンスも無いですが、似た例の話が古典を始めとしていくらでもあるという事は事実性があるのでしょう)
我々は「死ぬ」という「思い込み」で死に至る事が「可能」な生物なので「死ぬ」という事を認識しないようにストッパーがあるわけです。
逆に言えば「死なない」という希望的認識が常にあるわけですね。
なので「死ぬ」という希望の真逆となる現実的可能性が怖いわけです。
この「怖さ」は最終的にコントロール不可能な感覚ですが、人間が機械と違うという最大の点ですね。
コントロール不可能な領域があるという事は、つまり私達の言語認識の限界と同意義です。
認識できるという事は、私達の意思によって操作可能な領域であると言えますが、それが出来ない領域があり、それが言語認識の限界点の一つであります。
言語認識の限界点とは簡単に言えば本能であったり、感情であったりします。
我々はそれをコントロールしていると「思い込む」事で自分は賢いと「思い込み」生きているのです。


昨今のコロナの案件で言えば、どこの何が「正解」なのかは実は不確実性しかない事なので考えるだけ無駄なわけです。
主体性を持って考えた結果が正解かどうかは「神のみぞ知る」わけです。
だけど自分が頭が良いとう「思い込み」がその事実を認識できなくさせているのです。
パチンコ屋に行くおっちゃんが正解なのか、家に閉じこもってあつ森やってるおねえちゃんが正解なのか、そんな事は誰にもわからないわけです。
だけど頭が良いと思い込んでいると、正解があると思い込んでしまうわけです。
韓国が正解なのか、アメリカが正解なのか、中国が正解なのか、正解がどこにあるのかが知りたくて仕方ないわけですね。
それは「死ぬ」という事が怖くてたまらない、つまり「希望的認識」が破壊されるのが怖いという現象と同じ事で、「正解が無い」という事が怖くてたまらないから「正解があるはずだ」と認識しているのです。
前にも書きましたが、コロナにかかりたい人はいないわけです(特殊な願望は除いて)
つまり本質的に「死」そのものを回避したいという「本能」は誰もが持っているわけです。
この「本能」というものは「感情」という出力の大本の一つになるわけですが、我々が壮大に思い込んでいる「理性」と「知性」というものもまた「本能」の支配下にあると考えた方が良いのです。
でなければ「思い込み」が生み出す「誤謬」は発生しないわけですから。
それは何故かと言えば散々書いているように「未来は不確実である」という現実を認識できないからで、「知性」も「理性」も「希望的認識」の一種であるからです。

↑希望的観測が思い込みという誤謬を産み出す典型例
人間存在とは似たりよったりどんぐりの背比べなわけです。
私は綾野剛や向井理と同い年です。
他人から見たら大違いでしょうが、人間存在とは皆同じ様なもんなので、私も綾野剛や向井理と同じ様なもんです。
だけど世間から見たら大違いだと「誤謬」を生み出しています。
それは思い込みによるものなのです。

池田信夫氏は頭良いのはわかるのですが、政治家という生き物が何を判断基準に物事を考えているのかという事には無頓着ですよね。
わざと書いているのでしょうけど。
延長宣言は何故かと考えたら、延長せずに7日から通常に戻した場合の「リスク」と伸ばす場合の「リスク」を秤にかけたからでしょう。
総理流の決断は、誰かに言わせる、というものですね。
それ次第でしょうね。
あと自民党内の動きでしょうね。
そりゃあピザばっかり食ってる割に運動しないで太った太ったって騒いでる奴からしたら、そうなるだろうなと。