展望2020.04.29
ドーモ。
仕事が半減して走行距離も半減したS-Crossは良いぞオジサンです。
ドライブしたくても自粛モードですね。
暇な時は車を磨くに限りますね。
5月は仕事量が少し戻る気配ですが、どうなることやら。
コロナウイルスより交通事故による死亡者数の方が全世界的に見ても圧倒的に多いわけです。
つまりコロナウイルスによる「死」というのは、数字で言えばそれより恐れるべき「死」が存在するにも関わらず。我々に「死」をもたらすものとなっているわけですよ。
私にとって「死」はすでに三度訪れかけたものです。
盲腸炎と腹膜炎の合併症による「死」、肺炎による「死」、山の中で崖から落ちそうになった時の「死」。
そういや何年か前に都市高でフロントガラスに発泡スチロールが飛んできて視界が遮られた時も「死」がそこにありましたね。
我々は常に「死」がすぐそこにあるにも関わらず、「死」なないと思って生きているわけです。
そうしないと生きていけないのかもしれません。
コロナウイルスというのは大したもので、我々に「死」を突きつける概念化されたカードになったわけです。
本来なら「ただの風邪」だったのかもしれません。
そこが重要ですね。
大学教員やがアフターコロナの世界で起きる世界的緊張について質問ある?
なんか胡散臭い話なんだけどね。
北極航路ってのは壮大な夢に過ぎないと思いますよ。
実用化のコストが高すぎて無理ぽいってどこかで言ってたけどな。
アフターコロナってのはコロナが概念的である以上はアフターコロナも概念的なものになりそうなんですが、世界情勢ってものは現実的なもんなので、まずアフターコロナをどう設定するのかってとこです。
アメリカの収束(があるのかどうかは別として)をもってアフターコロナでしょう。
ダウの値動きってのはそれを折り込んでいくわけですね。
実体経済がどれだけ収縮するのかって事もありますが、コロナウイルスが概念的となればなるほど、実体経済の揺れ戻しは確実に起こるわけです。
それをどうやっていくのかが、アフターコロナへの第一歩でしょうか。
いまトランプのおっちゃんが一生懸命いろいろ言ってますが、対中というものが確実に一つのムーブメントなわけですね。
それぐらい中国をどうするかって事になるのがアフターコロナなわけです。
これは確実でしょうね。
原油の値動きも含めて考えていくと、今アメリカは対ロシアや対サウジアラビアともやりあっているわけで、これを大きく見ていくと、ユーラシア大陸勢力VSアメリカなわけです。
地政学的に言えば大陸VS海洋とも言えます。
そうなるとどこぞの仮想戦記やSF物みたいな話になりますが、ああいったものは一種の「未来予測」であり、そうである以上は何かしら現実の結果とシンクロするものでもありますね。
人間が考える事は人間のやれる事でもあります。
ただし人間の考える事とは常に「誤謬」が含まれるのです。
どうなるかという事は本質的にはわからないわけで、わからない事をわかったと思い込む事を失敗と言うのです。
アレは失敗だ、コレも失敗だ、というのは失敗の本質ではなく、アレは必ずこうなるだろうと思い込む事が失敗なのですよ。
主語が大きすぎるという言葉がありますが、これは、主語そのものを取り違えてしまう、という行為ですね。
岡村隆史の発言の主語とそれが示す範囲や効果を考えれば簡単ですね。
発言自体は「ゲス」発言ではありますが、それ以上でもそれ以下でもない発言なわけです。
なので岡村隆史自体が叩かれるのも、そうなるだろうな、というものです。
しかし岡村隆史発言への叩き方、叩かれ方を見ていくと主語の取り違いが行われているのが明確なのです。
まず岡村隆史自体に女性を貧困化させる働きはないですね。
コロナウイルスショックによる自粛の結果、貧困化する女性が増えるというのが要因としてある、そしてそれが主語となっています。
その影響で風俗で働く女性が増えるだろう、それに対して「面白い事が起こる」という感想(=述語)を持っているという事です。
もちろん岡村隆史発言は「ゲス」の極みではあり、その点に対して何の擁護すべき点はないと思いますが、「岡村隆史」が「貧困化した女性が風俗で働くことを望んでいる」という捉え方は主語の取り違えだろうという事です。
主語の取り違えが意図的なものなのか、どうかは知りませんが、取り違えを行うというのは主語の操作でもあります。
つまり思考の操作ですね。
なので主語とされてしまった「岡村隆史」は「岡村隆史」だけでなく、「吉本興業」であったり「男社会」であったり「日本」であったり、変化させられるわけです。
そのあたりはTwitter界隈でよく見受けられることですね。
そしてその操作と変化は捉える側「私」が「女性」となり「社会」となり、大きさが変化していくわけです。
これはマスメディアが常々使用する方法です。
「私」が「怒っている」というものが「我々」になり「国民」になり「世界」になったり、そういう操作によって印象と結論を変化させるわけです。
日本語に限らず言語とは主語の使用を厳密にしないと、いくらでも印象が操作可能であり変化させられるわけです。
岡村隆史発言の場合ですと、コロナウイルスによる影響が主語であるので、原因はコロナウイルスなのですが、その結果に対しての感想を述べた岡村隆史があたかも「原因」のように正義の棒で叩かれているわけです。
この場合の厄介さは岡村隆史の発言の中身自体はゲスなわけで、それは叩かれても仕方ないと思わされる内容だからですね。
ただ女性の貧困化の原因はコロナウイルス騒動なわけで、本来叩くべきはコロナウイルス並びに騒動なわけです。
わかりにくいことですが、逆に考えていくと岡村隆史叩いたところで女性が貧困化した結果風俗で働くという想定されている状況が変化するわけではないというのははっきりしていますよね。
逆から考えていけば、主語と述語の関係つまり原因と結果というものがはっきりするんです。
ここではっきりとするのが、いわゆる正義中毒による主語の取り違えが意図的かどうはともかく、行われているということですね。
正義中毒という病理、その代表的な事例となってきているのがコロナウイルス関連での日本政府批判です。
まぁ要するにアベガーもそうですが、彼らの発言を分解していくと、上記の主語の取り違いが頻繁に発生しています。
その発言には意図的にそうしているものと、自然とそうなっているものとありますが、だいたいが主語がどんどん大きくなっているわけです。
正義中毒とは、言語思考において主語の取り違えと操作と変化する構造、という事は確実でしょう。
そしてそれが何故なされるのか、正義中毒になってしまうのは何故なのか。
それはこの漫画にある通り「快感」なのでしょう。
この快感の伝搬を遡れば日本のマスメディア史と重なりますね。
明治の御一新で大量の侍の失業者が出ましたが、その中からマスメディアは登場するわけです。
言わば「負け組」の産業がマスメディアだったわけです。
板垣退助も明治政府から退くと、立志社を設立して新聞を作るわけです。
そして自由民権運動を進めるわけですが、後に内務大臣となってからは弾圧する側になるわけです。
人というのは立場や状況で思考が左右され、行動もまた左右されるわけです。
本質的に「思想」があるわけではありません。
「状況」があるだけです。
マスメディアとは「負け組」という状況を出発点として発展するわけですが、それは言い換えれば「反○○」なわけです。
つまりアンチですね。
完全にビジネスを目的としたマスメディアであれば、アンチではなく反アンチとして成り立ちますが、それもまた状況というだけです。
アンチというものはアンチである以上は「反○○」の○○を「叩く」わけです。
叩く特権と言ってもいいでしょう。
論理として成立した状態で叩いていいわけです。
その状況を「正義」と呼ぶわけです。
それは「快感」そのものですね。
それが正義中毒の正体であると考えるわけです。
現在の「コロナ」という状況は何がアンチで何が非アンチなのかが、コロコロ変わるわけですよ。
なのでわかりにくい事が起こってくるのです。
自由だリベラルだと言っていた連中が全体主義を目指し、反リベラルと言われていた層がリベラルであったとなる状況なのですよ。
これはどうしてかと言えば簡単な事で、相場の世界で言えばベタ凪な時は理論が当たるもんなのです。
荒れ場になれば、その理論が吹っ飛ぶ。
本質的に未来予測など不可能なのですが、ベタ凪な時ほど予測できると思いこんでしまう。
そして荒れ場になれば、それが出来ない事がわかってしまう。
でも人間は思い込みの動物なので、それを否定したくない。
頭の良い人ほど否定できないわけです。
この事が最重要ですよ。