黄昏の中の自由論

①状況を停止せよ夏 令和三年現在の世界で思想または政治的な運動は一体何があり、何が残るのだろうか? それを問う事にあまり意味が無いのかもしれない。 どうも人間様はもう新たな思想を展開する必要も欲求もあまりないようである。 左右だ何だという対立軸があるが、我が国おいて例えば自由主義民主主義等を否定する者は少ない。 とどのつまりの結の論が自由主義と民主主義なのである。 それか、それ以外か。 ただし我が国おいてそれ以外について論ずる事は何かしらの力によって封じられている模様である。 なぜかよくわからないが、そうなのであり、そうあらねばならないという事なのだろう。 つまり自由主義と民主主義を否定する自由はあるようで実質無いわけである。 厳密には自由主義はあれども自由を行使した瞬間にその行使した者は反社会的なる存在の如き扱いになるわけである。 それは概ねどの自由主義民主主義の体制下においてもそのようである。 全くもって意味がわからない。 不可解不可思議なのが自由である。 我々には自由があると憲法に保障されている。 そしてそれを不断の努力とやらで保持せよともある。 しかし公共の福祉に反しない、濫用するなと言う。 じゃあ自由とは一体何なのか?である。 実は自由とは何かなど学校でも教えてくれない代物で、それはなぜかと言えば学校は不自由を学ぶ場だからだ。 逆に言えば学校にいない、出た状態が自由でもある。 そう考えると自由とは状況に過ぎないものでもある。 民主主義というものは自由主義と関係がないようだが自由主義を守るためには民主主義なのだろう。 独裁主義では自由主義とは言い難いからだろう。 それはまぁそうかと思うが、じゃあ民主主義だから何でも自由かと言えばそうでもないわけで、やはり自由とは状況的なものなのであろう。 そんな自由だが、主義がつくと中々厄介である。 自由主義とはリベラリズムだのとも言う。 その中身だが、辞書をまず引けばよろしい。 辞書を紐解けばわかるが、実は自由主義という言葉の指し示す物事は多岐にわたる。 そして自由主義の幅は広い。 つまりは状況なのだ。 幅と奥行きがある状況だと言うことなのだ。 自由主義というのも状況に過ぎないのだ。 それだけの事なのだ。 それだけの事がわからないから意固地になる。 僕は私はリベラリズムですリベラリズム以外認めませんムキーとなる。 そして民主主義というものも、自由を主義として維持する装置みたいなものである。 これもまた種類がいろいろあり、現代的民主主義というものが条件によって使用可能な装置である以上は状況なのである。 早い話、自由と民主主義とは我々にとって信仰によって維持される宗教の如き扱いであるが実態としてはたまたま利用できているだけのものなのだ。 状況が変われば状況がまた変わる。 そんなものである。 ②自由よさらば 令和三年現在、新型武漢肺炎コロナウイルス感染症禍の最中である。 何株だの変異だのいろいろあるが、まぁ要するにインフルエンザの親戚が流行っている。 往年のスペイン風邪ほどの被害は無い。 感染力は高く、肺炎になりやすいのだろうが、無症状者も多い。 で、この新型武漢肺炎コロナウイルス感染症のおかげでよくわかった事がある。 世の中の自由と民主主義の体制を尊ぶ国家の国民の中には緊急事態だと騒いでロックダウンつまり私権停止を求める人間が多く存在したのである。 これは実に不可解で、往々にして私権停止を求める人間は自称のリベラリストであり、つまりは自由と民主主義を信仰する者である。 逆であればおかしくない。 ロックダウンを求める者が自由や民主主義に懐疑的であるのなら、良い。 自由や民主主義に懐疑的な者がロックダウンを求めるわけではないから不可解なのだ。 中には大真面目に収入保障があればロックダウンしても良いなどと言う人間まで登場した。 実に不可解である。 リベラリストとは一体何であろか? 自由を投げ捨てる行為に賛同するリベラリストというものが存在することに驚かされたのである。 自由よさらば!!収入と感染対策万歳!! ③アメリカンラプソディ 令和二年のアメリカは選挙の年であった。 結果は民主党バイデンの勝利と言われ、トランプ大統領は敗北したと言う。 しかし不思議な事にあれだけの大騒ぎの後は意外と静かなもので、バイデンは相変わらずバイデンでありミスター・プレジデントというよりは小銭稼ぎの上手そうな上院議員という風体である。 一方のトランプ親父は、これまた相変わらずで支持者の前でトランプ親父を楽しそうにやっている。 私は国粋主義者でありモンロー主義というより超然主義を越えた超越主義外交論者であり究極的鎖国論者でもあるので実は「ネトウヨ」と某所で言われた割にはあまりアメリカ大統領選挙そのものに執着もこだわりも … 続きを読む 黄昏の中の自由論