誤謬の人

誤謬の人 ①人類誕生 人類とは何か? これだけで一つの壮大な学問となる。 ホモ・サピエンスという「種」が即ち現生人類と生物学的には定義されている。 ホモ・サピエンスとヒト・人・人間という言葉は同じ意味であって同じではない意味も持つ。 ホモ・サピエンスとはラテン語で「賢い人」という意味があるらしいが、何が賢いのか? 人類には我々ホモ・サピエンス以外にもいくつかの種類がいた。 ネアンデルタール人などである。 なぜホモ・サピエンスだけが生き残ったのか? 話は長くなるが、要は認知能力であるという。 人類史はわからない事だらけだが、大まかに言って我々のご先祖さまは直立歩行を始めた。 チンパンジーとの共通の祖先から別れた我らのご先祖さまは森林の負け組であり、新鮮な木の実などは手にはらず、木から降りたり登ったりして何とか食料を手に入れていたという。 気候変動なのか追い出されたのか、森林から草原で生活する事になり、そこで直立歩行というものが活かされる。 危険を見て発見するのに直立歩行の方が良かったのである。 そして直立歩行によって姿勢が変化し、結果的に大きな脳を手に入れた。 そして知能が進歩し、道具を使えるようになった。 同時に脳は莫大なエネルギーを必要とする。 最大の道具の発見は火である。 火を使えるようになった事で人類全体は自分たちより大型の捕食者達より身を守り狩る事ができるようになった。 そして火で調理することで栄養状態が良くなった。 これで脳にも栄養が足りるようになり、さらに脳は進化していく。 猿人、原人、旧人、新人と人類は進化してきたのである。 新人の時代、今から約20万年の時代に我々ホモ・サピエンスも発生したという。 そしてホモ・サピエンスが゚゚隆盛を極める事になるのは約7万年前、ホモ・サピエンスの中で認知革命が起こったからだという。 認知革命とは我々がフィクション・虚構・物語を共有化する能力、と考えればいいだろう。 音声によるコミュニケーションはホモ・サピエンス以外でも行われていたのだろうが、ホモ・サピエンスは音声によるコミュニケーションの中でも言語認識というものの能力が高かった、または何らかの理由により高まったであろうか。 フィクションとは言語認識の高度化である。 観たことのない景色や、出会った事のない人を言語で示し理解を共有できるという事であろう。 それによりホモ・サピエンスは社会性をより高度化させ、組織的に集団行動で目的を達成する事が出来るようになった。 その能力で全捕食者の頂点となったのである。 どれだけ巨大で強大な力を持つ捕食者、つまりピラミッド構造の上位の存在であっても、現生人類ホモ・サピエンス様には勝てなくなったのである。 ②想像力は偉大なり 想像力とは認知革命という観点において非常に重要な意味を持つ。 なぜ我らは想像するのか? 物語を作成するためである。 物語によって、我らは意識を共通化できるのである。 日本人ならば犬と猿と雉が並んでいたら、何という物語かすぐに理解できる。 海岸で亀がいじめられていたら、助けた後の展開は誰でも想像出来る。 それは我々日本人が共通で学ぶ物語があるからである。 その物語を法律と置き換えても良いし、歴史と置き換えても良いし、料理でもパソコンの使い方でも何でも良い。 数学もそうであるし、物理もそうである。 科学も物語である。 要は我々が共通して認識していると定義できるもの、それは大きな意味でフィクションであり、認知革命とはフィクション革命でもあったわけだ。 言語とは暫定である。 りんご、と書いて我々は果物の林檎を認識するが、その場合の書かれて示される「りんご」と、書かれた「りんご」を認識して想起される「林檎」は同一ではない。 必ず差異が発生する。 それは100人いれば100通りの「林檎」が発生するのである。 だが、100人が共通して暫定値である「リンゴ」を認識している。 これは各「林檎」の構成要素が100人の中で概ね一致している事により、「林檎」の構成要素の共通項から暫定的に定義できる存在としての「リンゴ」が発生し、共通項から定義する存在なので100人の思う「林檎」それぞれとも共通項が存在しているので100人の認識としては「林檎」と同じ働きとなる存在である。 それがフィクションの正体である。 問題は、全人類的問題は、フィクションと非フィクションの「くぎり」である。 大乗仏教思想で言えば、全てがフィクションである(=空思想・相互依存関係による存在構築)と定義できる。 だが、そうでないという思想も数多存在し、どれが正解なのか、それは個々の定義による。 いずれにせよ、我々は想像力というフィクションを生み出して運用する力を持っているのは確実なのだ。 だからこそ、我々は集団で生きてこれたのである。 … 続きを読む 誤謬の人