メディアという病気
①新聞記事よ正しくあれ
新聞記事が「正しい」というのは誤謬である。
多くの人々に「新聞記事だから正しいという認識は危険である」という事実が広まっている現状である。
実に良い兆候だが、それが80年代後半から90年代にその認識が広まっていたのなら、今はもっと良い時代であったかもしれない。
しかし残念ながら2021年・令和三年の現時点でも新聞は正しい事を書いていると信仰して疑わない人々が多く存在する。
実に嘆かわしい事である。
何度でも書くが、新聞記事に正しさの担保はそもそも無い。
写真ですら偽造できる時代である。
記者が調べたからと言って何の担保があろうや。
まずはその事実からである。
なんの担保もない話を我々は高い金払って読むのである。
そんな事はない、大げさだ、結論ありきだ、ただのマスゴミ嫌いだ、と思われるだろう。
マスゴミ嫌いは当たっているが、新聞記事に正しさの担保など無いというのは事実である。
過去に誤報はどれだけあったか?
誤報がなぜあるのか、君たち考えた事があるか?
記者が間違えた?
そうではない。
誤報を出すというのはどういう事か考えてみよう。
記者が誤報を真実だと思い込むから、そうなったのである。
つまり記者ですら情報の真実性の担保の無い事があるというわけだ。
つまり新聞記事が真実であるという担保はどこにも無いのである。
無論、完全に覆せれないほどの真実は存在する。
先日の野球の試合結果などがそうである。
だが、野球の試合結果の報じ方には真実性はまた担保されないのだ。
そこにあるのは記者の思い込みが入る。
球団がプロ野球チームを運営していると、実に恣意的な情報になるし、真実性など吹き飛ぶ。
「大本営発表」が毎日報じられるわけである。
やはりだ、新聞記事に正しさの担保も現物も無いのである。
新聞記事に「正しさ」も含まれているが、同時に「間違い」も含まれているのだ。
それは極めて自然である。
間違の無い人間など存在しない。
そうであろう?それが「真実」であろう?
だが、なぜ各種新聞並びにメディアが問題を発生させ世の中に害悪を撒き散らすのかと言えば、自分たちに間違いなど無いと宣言するからである。
新聞の一面に必ず「ここに書かれていることは全て正しいわけではありません」と注意文を掲載したら良い。
それだけの事だが、それだけの事が絶対に出来ないのが新聞記者である。
新聞よ、正しくあれ。
新聞記事よ、正しくあれ。
正しくある、実に簡単な事ではないか。
②それは病気です
私は新聞であろうがテレビであろうが、各種メディアが持つ「真実として正しさの担保も保障も何も無いが、常に正しいと言い張る姿」は病気だと断じている。
病気としか言いようがないのである。
世の中というものが、多面的であり相互依存関係で成り立っているのであり複雑系である以上は、正しさも間違いも多面的であり両面的である。
それだけの事であるのに、それが認められない、または認めたくないのは病気であろう。
病気というと語弊があるのであれば、ビョーキであろう。
そしてその間違った正しさを信仰するのもまたビョーキであろう。
なぜそうなるのか?
一つはそれが楽であるからだ。
マスメディアつまり間違いを内包した情報を正しいとすることで、安心できるのだ。
正常性バイアスなどと言う言葉があるが、何かしらの安心が欲しいから情報を仕入れるのである。
真っ暗闇が怖いのは本能である、情報が無い状況はそれに等しいわけだ。
明日、仕事で見知らぬ土地を走らねばならない、ならば地図で下調べしておいた方が安心である。
つまり不安に大して情報によって安心を獲得したいのだ。
メディアの流す情報を仕入れることで、各種の安心が手に入る。
政治が悪い政府が悪いとメディアが流せば、やはりそうか状況が悪いのは俺のせいでない政治が悪い政府が悪いからだ、安心である。
現実はどれだけ政治が良かろうとも、自分というものの観測する状況が良くなる悪くなるはそれだけで確定するものではない。
主観において世の中というものがバラ色に見える事はまず無いだろう。
人間というものの意識は、そう認識できない。
常に不満、常に渇望することで成り立つ。
つまり常に不安であるわけだ。
同時に不安であるから安心を求めるのである。
その循環構造が意識である。
同じ場所に留まる事がないのである。
だから不安と安心を行ったり来たりするわけである。
マスメディアの垂れ流す情報は、世の中にはこんな不安があるが、悪いのは政府である、政府が悪いからこうなっているのだ、それさえなんとかすればバラ色である、という構造である。
不安を煽り、安心(擬似的な)を与える。
有る種の薬物中毒のようなものである。
③ジャンキーに告ぐ
最大の問題は何か?
このある種の薬物中毒、これに嵌り抜け出せない「ジャンキー」の存在だろう。
インターネットではいくらでも観測できるが、常に不安で常に恐怖があり、その実体の無い不安と恐怖と戦う事が生きがいのような人がいる。
ジャンキーであろう。
考えたらわかりそうなことだが、世の中の大きな問題なんてものは畢竟どうしようもない事でもあるのだ。
問題が大きくなればなるほど、構成要素は複雑化を極め個人レベルの思考では到底解決も改善も難しい事柄が多いわけである。
だがジャンキーからすれば、問題は不安であり恐怖であり何とかしなければ不安も恐怖も解消されないから何とかすべきであり、その何とかするのは政府や役所や企業や見知らぬ他者が悪いのであり、その「悪いやつら」を何とかすれば問題は必ず解決するのだという「方程式」しか無いのだ。
無論、ジャンキーが騒いだところで何もならぬ、が、騒いで何ともならぬとまたけしからんと騒ぐわけである。
そうするとジャンキー同士の発見により、安心するのである。
自分と同じジャンキーがいることで安心してしまうのである。
だからジャンキーはいつまでも消えないし、問題なのである。
無駄だと思うが、一応ジャンキーに告げておきたい。
世の中とは、自分なんぞでは何ともならぬことばかりである。
なんともならぬ事で不安や恐怖を感じ大騒ぎするのなら、独りでやれ。
独りでやってみて、独りで考えろ。
安心は答えではない。
④ペリカンの巣の上で
あの時どうすれば良かったのか?
それを考えるのは人間の宿命的性質である。
一つ確かな事は人間は必ず間違いを犯すし、間違いが無くなる事はないという事だ。
少しでもマシな結果を望むのも人間の宿命的性質だが、それが人間の不幸の源泉の一つだろう。
バカをやめるためにバカをする、それに意味があるのだろうか?
人間とはそんなものである、という開き直りと達観で楽しむのであれば、それはそれだろう。
だが、物事には限度ってものがあるし、せっかく「自由」になれるチャンスがあるのだ。
我々は取捨選択の自由を持っている。
擬似的不安と擬似的安心の循環から抜け出すのは難しいが簡単だ。
情報を正誤で判断せず、多面的に処理するのだ。
手っ取り早い方法は距離を取る事だろう。