言論よ、さらば

①令和6年のさようなら 悲しきネットモンスター。 実に悲しい存在である。 令和6年においてそれがはっきりしてしまったのである。 ネット言論における「正論」はその正体が出羽守であるとか尾張守であるとかというネットミームのようなものでしかなくなった。 驚くことはない、そんなものは周期の問題である。 2000年代以降長らく支配的であった「正論」が崩れていくだけのことである。 それは日本国総ネット化、つまりコロナ禍によって完成された強制的なネット参加(あるいは非アナログ社会の到来)によって今まで支配的であった「旧」ネット的なものが滅びゆくということである。 「正論」は「プロパガンダ」でもあり「ビジネス」でもあったが、それが完全に崩壊したのは令和6年元日の北陸における震災である。 その震災においてネットはどうであったか?とりわけX(旧Twitter)での「言論」の右往左往を眺めていた自ずから解ることである。 多数が政府や自治体の公式発表を信用し、少数の者が「正論」を信仰した、そして今もそうである。 情報はどちらが正しいかの時代ではなく、どちらが信用できるかという時代になった。 それは昔も変わらずそうである、というのは認知の歪みである。 ただ情報を出す、というだけでは誰も信用しなかったのである。 情報に対して正論があるから信用されたのである。 それが崩れたのである。確実に。 これをあの「寿司屋の件」で考えてみたらわかりやすい。 実は寿司屋は何も言っていない、ただ今までの情報などがあるだけだ。 だが、多くの人は何も言っていない寿司屋を信用した。 今ままでの情報、それだけで信用されるのである。 言論があった女性側の言い分は少数の者しか信用しなかった。 そう、言論であった女性は「悲しきネットモンスター」となるしかなかったのである。 ②悲しきネットモンスターの悲哀模様 「悲しきネットモンスター」とは何か? それは「言論」であり「正論」であり「プロパガンダ」であり「インフルエンサー」であり、要は「正しき者」というポジショニングである。 マウンティングかつポジショニング、それが2000年代以降のネット空間における覇者であった。 それを支えてきたのがお作法の数々であった。 マウンティングかつポジショニングとはそういうことである。 しかしネット空間の匿名性が担保されなくなった現在では、過去のものになりつつある。 完全匿名は非匿名にマウンティングアンドポジショニングで勝てない、それが現実となったのだ。 ネット空間は現実と直結となった。 それだけのことであるが、その破壊力はこの20年間の蓄積を破壊するのには充分な力を持っている。 ネットの非匿名性は今後も進む、なぜなら非匿名性の優位性が確率されたからである。 どこの馬の骨かもわからぬ者の正論より、政府の出す事実の方が情報として正しさが担保されていると多数に理解されてしまったからである。 悲しきインターネットモンスターよ、君たちは完全に悲しさに包まれたのだ。 悲しむな悲しきインターネットモンスターたちよ、君たちが望んだ「正しさ」はそこまで来ているのだ。 ③きのう何書いた? インターネットにおける言論は常に過去が現在として作用し、未来においてもそれが見越される。 つまり情報量が蓄積されればされるほど「制約」となる。 同時に非匿名性という「誓約」によって蓄積を利用することも可能となっている。 制約と誓約によって言論は無力化され、情報が強化されるのである。 同時に情報の価値が上がるので、その情報に対してのダメージが致命傷ともなりかねない。 オオタニサンは言論を踏みにじれる圧倒的強者であるが、瞬間的にその情報の価値が下がることで致命傷も受ける弱点が最大化したのが現在である。 これで解ることは、弱点が完全に特化されるということである。 非匿名性の情報の制約と誓約の極地は弱点もまた極地となる。 情報の強さはクリーンさで担保されるのだ。 ホワイト化社会というやつである。 つまり「正しさ」が担保された「正しき存在」が強い、というシンプルなルールになる。 その正しさを担保するのは情報であって、言論ではないのだ。 それは信用スコアのように制度化され運用されなくとも、確実に今ある。 すでにそうなったと考えるべきものである。 きのう何書いた?常にそれを考えていないと我々は致命的な弱点をかかることになるのだ。 ④光らない君であること 何も光る君としていることが最善手ではない。 それだけのことでもある。 「悲しきインターネットモンスター」は一時の光る君を手に入れた、その麻薬性・中毒性は恐ろしい副作用がある。 「あなたは正しい」という承認こそ快楽なのだ。 だがその快楽は常に手に入れ続けることは難しく、また承認欲求に限りは無い、破滅の道なのだ … 続きを読む 言論よ、さらば