映画雑感

映画雑感『ルパン三世 カリオストロの城』

ブレードランナーで少々疲れていたのと、どうしても観たい部分があったのでまた観た。

それにしても僕たち私たちは何度カリオストロの城を観たのだろう?

君たち数えたことがあるか?

オジ(‐◎✹◎‐) サン はないぞ。

オジ(‐◎✹◎‐) サン ごときが語るのもおこがましいのがカリオストロの城だが、何度観ても面白い完璧それが オジ(‐◎✹◎‐) サン にとってのカリオストロの城なのだ。

カリオストロの城、天空の城ラピュタ、紅の豚あたりは何度観ても良い楽しい完璧。

しっかしどうしてここまで完璧な冒険活劇が描けるのかと不思議ですよねワンダー。

それでいてそれぞれがそれぞれの深みがあるわけです。

散々語り尽くされている部分も多いのですが、 オジ(‐◎✹◎‐) サン 的な雑感を少し書いておきたい。

軸というもので観ていくと、宮崎駿作品にはいくつか軸があって、その一つがカリオストロ→ラピュタ→紅の豚じゃないかと思っている次第。

その軸は風立ちぬにもつながっていると思うのですが、やはり紅の豚ってのが一つの宮崎駿作品の究極系であると信仰しているので、とりあえず3作品を一つの軸として考えたいのですよ。

シュナの旅→未来少年コナン→ナウシカ→もののけ姫って軸は思想文化的な軸ですよね。

農耕であるとか文明であるとか、人間文明論という壮大なものを含めたものですね。

で、対してカリオストロの城もラピュタも紅の豚もそれらとは違う面があります。

ラピュタは文明論入ってるよね?というのもありますが、それはシータ目線なりで観ていくとって話ですね。

あくまでラピュタをパズー目線で考えたいわけです。

パズー目線で考えるとラピュタとは「女・冒険・成功」の物語です。

実に男臭いものです。

カリオストロはどうでしょうか?「女・冒険・成功」あれ?似てますね。

紅の豚はどうでしょうか?「女・冒険・成功」同じですね。

ですのでまず三作ともに構成要素として似ている、いわゆる冒険活劇としての要素があるわけです。

それを言い出したらシュナの旅も未来少年コナンもそうだろとか、ナウシカもアスベル目線、もののけ姫もアシタカ目線だとまぁそうなりますが、物語内での比重の問題もあります。

未来少年コナンは難しいところですが、最終的にラオ博士やインダストリアの話が重要ですので思想性が強いですからね。

シュナの旅は難しいですが、かなり悲劇性であるとか叙事詩的な面が強くて冒険活劇ではないですね。

そう、観た感触というものが大事。

やはり冒険活劇という点です。

冒険活劇という軸、これがはっきりしているのがカリオストロ→ラピュタ→紅の豚です。

ただ何が違うってのは簡単で、カリオストロが青年から中年になる男の話、ラピュタは少年から青年になる男の話、紅の豚が中年が中高年になる前の話。

男の一生の中での時間軸がそれぞれ物語内で違う。

その違いが何で現れるのかと言えば、女性(ヒロイン)に対しての行動や言動ですね。

それぞれの物語は女性に対する性的な感情の動きや衝動が織り込まれていますが、中身はだいぶ違いますよね。

有名なところだと宮崎駿自ら熱っぽく語っているラピュタのパズーとシータの見張り凧での話とかですね(なぜパズーは毅然としているのかを駿節で語っている)

紅の豚はまぁ説明不要なほど中年の男女の話ですからね徹頭徹尾。

ジブリ作品であり宮崎駿の気質としてそういった面を全面に描写して楽しませるみたいな事はなくても、しっかり織り込まれているわけです。

ではカリオストロの城のルパンとはどうなのか?

ヒロインはご存知クラリス嬢なわけですが、ルパンとクラリスってのは年の差がまずあるわけです。

オジサマなわけですね。

で、オジサマはどうしたかと言えば立ち去るわけです。

クラリスはヨーロッパ的というのかラテン的というのか、アグレッシブ&ポジティブなわけですよ。

それがドロボウになる発言ですね。

普通のドラマだと一緒にいてほしいとか、どうにかしてカタギとしての生き方をルパンにさせた上でくっつきたいわけですが、そうじゃなくて自分もドロボウになるというわけです。

読み方によっては単なるあなた色に染まる良い女的な台詞にも思えますが、どうもクラリスはそんな情念だけの女じゃないわけです。

どう生きるか、という点で考えたらクラリスはラストの時点ですっからかんなわけですよ。

設定的にはカリオストロ公国を継げたようですが、貧乏になったわけです。

損得で言えばカリオストロ伯爵と所帯を持つのがベターだったわけです。

伯爵家の本家筋の大公家の血筋ではあっても財産は伯爵が持っているわけですね。

伯爵の台詞から推察するに、伯爵はクラリスが好きではなくて本家の血筋だから必要としているわけです。

その場合、好き嫌いですと後で捨てる可能性もありますが、あくまで血筋そして正統性が必要なのでそれなりの処遇をするのは明瞭ですね。

薬品などで黙らせるというのもあるかもしれませんが、そこまで血筋や正統性を求めるというのは、後々の跡継ぎのことも考えないといけないので、そういう荒事はしないだろうと思われます。

それぐらいの事は大公家に生まれ育ったわけですし、修道院にいた時点で色々と考える時間もあったので、クラリスは理解した上でいろいろと行動しているとは思われますね。

気持ちの上で嫌だからポンコツ2CVで逃げ出したけど、損得で考えたらそこまで悪い話でもないのでとっ捕まっても最悪の選択をするほどでもない、という事でしょうか。

行動から考えていくとクラリスは情念一辺倒の女じゃないわけです。

損得も考えるし、立場も考えるし、好き嫌いも考える。

ラストでのクラリスってのは、単に好きだからルパンにくっついていくだからドロボウになるんじゃなくて、ひょっとしたらルパンとくっついてドロボウになったほうが良いのかもしれないという感情と理性の複雑系な結合の結論があったのじゃないでしょうか?

それは合理性だけでも情緒だけでもない、複雑系の結論だと思うのですが、宮崎駿はヒロインにそういう面を持たせるのが好きだとも言えるでしょう(そこらへんの情緒の複雑さは実際にもあるよマジで)

で、大事なのは男の目線、ルパンです。

ルパンはオジサマとしてクラリスの考えを理解しているわけですから、懊悩しながらも立ち去るわけです。

単純にヒロイックな感情だけで行動しないのが中年になりつつあるルパンなわけです。

そこいらがカリオストロルパンの面白いポイントですね。

それはつまり「オジサマ」とはどうあるべきか、というのがカリオストロの面白さの一つなわけです。

だからオジ(‐◎✹◎‐) サンもまたカリオストロの城を観たくなったのですよ(一番観たかったのはオープニングなんですが)

オジ(‐◎✹◎‐) サンもオジサマになりたいのかもしれませんね。

岡田斗司夫説だと青年から中年へと変化しているルパンがまた青年のあの頃を追体験してあの頃を取り戻してみたいという衝動があったと解説していますが、オジ(‐◎✹◎‐) サンもそれがわかるのです。

確かに30代前半って青春または若気の至りをまた最後に追体験できるラストチャンスという感がありました。

40ともなると体力も気力も削がれて、完全なる中年となっていくわけです。

ですので本能的にルパンはまたカリオストロ城に挑んだ、とも言えるのですが、だけどもという感がオジ(‐◎✹◎‐) サンにはあるのです。

だけども中年となるルパンとは、岡田斗司夫説の青年のあの頃追体験説をわざと楽しんでやったんじゃないか説です。

もうわかっていたはずですよ、あの頃はあの頃で、今は今だと。

だからラストでわざとらしい懊悩であり、それは真実でもあるが、銭形のとっつぁんが追いかけて来てくれた時のあの嬉しそうな表情になったんだと思いますよ。

あの頃より楽しい、実はその確信がラストのルパンにあるんではなかろうかと。

ここで『炎のたからもの』の歌詞を振り返ってみましょう。

あれはクラリスの気持ちですか?

気持ちはクラリスでも現実のルパンと連れ添って茨の道や凍てつく夜を共に過ごしたのは誰ですか?

相棒の次元大介じゃないですか(五エ門は相棒というより仲間ですね)

ルパンにとっての炎のたからものは相棒の次元大介であり、仲間の五エ門であり、腐れ縁の峰不二子であり、追いかけっこを本気でやってくれる銭形のとっつぁんなわけですよ。

それは宮崎駿がそうあるべきと考えたというよりも、現実の中年となっていく自分または男ってもんがそうだったりするんじゃないですかね。

クラリスのようなお嬢さんを心に思い描いても、それより楽しいものを手に入れてしまっている中年手前の男の気持ち。

それがカリオストロの城のオジ(‐◎✹◎‐) サンが心惹かれる楽しさの由来なのではないかと思うわけですね。

「女・冒険・成功」の成功とは、カリオストロの城のルパンにとっては日常となっている非日常性がそうであって、「炎のたからもの」とはその非日常なわけです。

クラリスはその「炎のたからもの」が欲しかった、だからドロボウになりたかった、そう考えてみたらどうですか?

あのラストのクラリスがルパンに投げかけるのは、ルパンが好きだからという情緒と同時に、ドロボウという生き方が本気で楽しいものと思えた、そうだとしたら実は観方がまた変わりますよね。

オジ(‐◎✹◎‐) サンの好きな宮崎駿分析による岡田斗司夫説もすごく良いのですが、オジ(‐◎✹◎‐) サンはあえて言いたいのがカリオストロの城はまた観方を変えるとルパンの生き方そのものがルパン本人にとっての炎のたからものであり、クラリスもまたその楽しさに気がついた、そう考えると今度はラストの銭形がクラリスに投げかける「とんでもないものを盗んでいきました」は、実は恋心とか思い出とか生易しいものじゃなくて、ルパンと銭形が共通して持っている「炎のたからもの」つまり非日常を生きるやくざ者であるとか勝負の世界のロマン性を楽しいと思えてしまう心を持ってしまった=ルパンとの出会いと体験でクラリスの普通性が欠如した事を「盗んだ」と表現したのではないでしょうか?

ここまで書いていくとさすがに妄想の世界が広がりすぎたので今宵はここまでにしとうございます。

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agwwbnr/Kenshin Hoshino