展望2019.2.27
新参ソニーがカメラ最高級市場で初のシェア1位、悩むキヤノンとニコン
フルサイズミラーレスに注力したのが功を奏したのがSONYの強み。
キヤノンとニコンは完全に出遅れた感あり。
キヤノンは猛追しているのだが、個人的にはちょっと魅力は感じないですなぁ。
まぁMFT使って満足してるのでフルサイズもAPS-Cも使う理由もないのですが。
ニコンはニコン1を捨ててフルサイズミラーレスで勝負に出ましたが、エントリーモデルも無く、かなりストイックな勝負ですな。
パナソニックはライカ・シグマと連合を組んでフルサイズLマウントで勝負してますが、明確に高級路線なので勝負の仕方が少し違いますね。
フルサイズ戦争の模様ですが、SONYがレンズラインナップでもボディ開発でも先行しているのでフルサイズミラーレスでは優位性は変わらない気がしますね。
カードだろうがペイペイだろうが、元の現金が無いと支払いは出来ないわけです。
損得で言えばポイントの付く支払い方法が若干お得でしょう。
カード払いなら現金が必要になるのがカードの引き落とし月になるので、カード支払いの利点としては手元に長く現金を置いておける事です。
私はマイルの貯まるカード払いばかりです。
塵も積もればで、気がつけばけっこう溜まってます。
やるところも減りましたね。
音が煩いですし、時間もかかりますからね。
学生麻雀の不思議なところは、なぜか麻雀好きが自然と知り合うところですね。
学生の頃は不運にも麻雀部屋になってしまった下宿に住んでる友人のところに良く入り浸ってました。
多趣味な友人でしたので、麻雀以外でもつるんで遊んでました。
ネットが普及しはじめた時代でしたが、ネットで暇潰すより現実的に遊ぶ事が普通の時代でした。
映画何本も借りてきて観るとか、酒とか焼き肉とか。
最初は酒もタバコもやらなかった彼も、ブラックニッカの4Lとセブンスターを愛する男になりました。
彼に誘われてオールナイトの三本立の映画を観に行ったのが今でも思い出しますね。
シルバー劇場だったはずです。
私は金欠の極みでバイトばかりになり、ゼミの関係などでその友人や麻雀仲間達とも疎遠になってしまいましたが、今思えば貧乏してでも彼らと麻雀をもっとやるべきでしたね。
映画と本と酒とタバコがあれば良いんだ言っていた麻雀部屋の彼は、今何をしてるのでしょうか。
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日本人が相変わらずなのは、すっかり相手のペースで踊らされたところです。
それもたった一人のおっさんの一言でレーダー照射問題という大問題、さらにその背後にある国際感での合意事項を無視するという行動などの一連の懸案事項をあやふやにされたことです。
これは外交というより「喧嘩」のやり方ですが、逆ギレからの論点ずらしであるわけです。
相手の「理性と知性」を信頼するのが「外交」だと信仰しているのが日本政府並びに外務省なのでしょうが、それが通用するのは平時だけであり「カタギ」相手だけなのです。
もう今は鉄火場に突っ込んでるのであり、鉄火場には鉄火場の「作法」があるのですが、鉄火場にどうも弱いのが昨今の日本人の特性かもしれませんね。
遺憾砲や残念砲を打つしか手がないのを相手はわかってやってるのですが、さすがにそれぐらい政府の人間もわかってはいても、鉄火場で切った張ったやるのも嫌だなってとこでしょうか。
できるだけ穏便に、という「大人の対応」を続けると実は後で取り返しのつかない事になる可能性があるのですが、まさかそれが狙いで切った張ったを避けてるのでしょうかね。
多くの日本人にとっての宗教は、宗教というより現象や状況なのです。
宗教とは何か?という事を学校教育などではやりませんね。
それらを踏まえて考えると、宗教が結局何であるのかがわからないために悪として考えるのが楽だということになるのではないでしょうか。
宗教を考える際にはまず特定の宗教で考えるのではなく、宗教の特性から考えるべきです。
その際の宗教として浮かび上がってくるのは、ある社会や集団での合意事項や認識の共有をする「システム」としての一面です。
日曜日は仕事を休む、という共通の合意事項であったり認識も宗教が由来です。
喪中のハガキを出すのもそうです。
我々の社会の中で形成されている合意事項や認識の多くに宗教が由来となるものがあるわけです。
無論それらは宗教の持つ特性の一面でしかなく、功罪さまざまな面があるわけですが、単純に良し悪しだけを判断(その判断基準というものも実はあやふやなものであるのが人間ですが)してしまっては人間社会の階層や積み重ねが分断されるだけなのです。
人間というものは常に今の「自分」が正しく正確であり間違えないという間違いを犯しながら生きているので、特に「理性と知性」に基づいて「合理的」に判断できると「信仰」している昨今の人間は安易に「良し悪し」という判断をしてしまいます。
「自分」に疑いを持つという行為は「宗教的」かもしれませんが、文化科学が発展し数字で全てが現せるという「信仰」を持ってしまった人間にこそそれが必要なのかもしれません。