自動車選び考・気分は逆走線

①自動車選び考の考

自分は自動車好きではない、と思う。

自動車の事を書くが、特段の自動車マニアでエンスーでオタクであるという事全くもって無いのである。

ただの自動車を仕事で使うオジサンなのだろう。

じゃあ何を書くのかという事だが、免許を取って自動車に乗って20年を越えるとさすがに色々とわかってきた。

2021年夏、自分の車としては10台目となる70系ヴォクシーがやってきた。

10台というと凄い数にも聞こえるだろうが、中古で一年で壊れたり、家族の共有の車なども含まれるので、本当に自分で買ったのは3台である(いずれも中古車である)

そもそも仕事で車を使うため、長く一台だけを使うというのも難しいのであるが、一番長く付き合ったのがホンダのエアウェイブである。

これは9年14万キロ超乗った。

さほど気に入っていたわけではない。

ただ、流れでそうなったのである。

本当はその前に乗っていたコロナプレミオの方が気に入っていた。

これも12万キロほど走って、まだまだこれからという感もあったのに、つまらない根性でエアウェイブに乗り換えたのだ(これはタイミングであったが、本当に失敗したと思っている)

しかし、このあたりで自動車について深く考える事ができたようにも思える。

自動車考と言っても、結局は自分にとって何が大事かという事だ。

そこを考えて見極めるのが自動車考なのだろう。

その為には自分の失敗点が重要となる。

結局は失敗して学ぶ点が多いからだ。

よくよく考えてみれば、自動車選び一つでもどれだけ「正解」があるのだろう?

正解は一人一人違うのではないだろうか?

自動車考は何十年車に乗ってはじめて到達できる境涯ではなく、18歳で免許を取得して自動車を購入するその時にこそ必要なのである。

だが、誰もそこで「正解」がわかるわけではない。

単純に何でも買えるのなら、「正解」には近づきやすいだろうが、現実はどうなのか?

また、正解がわかっていても我慢しなければならないかもしれない。

だからこそはじめてのその時にこそ自動車選び考が必要なのだと、今更ながらに思うのである。

②誰も正解は教えてくれない、誰も正解を知らない

実は言うほど世間の誰も正解なんて求めていないのではないか?

そう書くとわかりにくい。

我々は思い込めればそれで幸せなのである。

だから自動車ジャーナリストや自動車評論家というものが存在してしまうのであろう。

以前にも書いた事であるが、我々が「常識的」に知っている自動車の「常識」というものがある。

その「常識」は「のれん」であると書いた。

早い話が正解など一人一人で違うものを一定の価値観を固定化する事である。

つまり無限にある正解、つまりそれぞれの最適解であるものを、数種類の正解にしか「ない」とするのである。

そうすればその数種類の「正解」が「正解」となる。

その象徴がヒエラルキー・ピラミッドである。

高価格で希少性があって重厚長大高機能高出力高性能なものを頂点したピラミッド構造にして、上位であればあるほど「正解」とする方法論である。

このピラミッド構造を守る事が自動車報道と評論であり、その産業構造を守るのが自動車メーカーにとっても一定の利益をもたらし、その単純明快なピラミッド構造の中で上位を目指すのが自動車好きやファンやエンスーやマニアやオタクとなった。

2001年式カローラセダンに乗る人と、1965年式ロールス・ロイスシルバークラウドⅢに乗る人、どちらがより車好きなのかどうか?その判断は完全に我々の「思い込み」によって作られる。

その「思い込み」を作り出す根本は、その構造を作り出す構造というわけである。

今はその構造を生み出す構造、即ち自動車報道なり評論なりの存在意義等を考えたいわけではない。

あくまで我々にとって大事な事は、そういった構造によって我々の思い込みが製造され固定化され思い込んでいという構造であるぞという事である。

そして重要な事は、その逆であれば正解である、という逆張りが正解であるというわけでもないという事である。

あくまで正解とは最適解であり、最適解とは一人一人違うという事の確認である。

その事を踏まえて章題を見直せば意味がはっきりする。

自分にとっての最適解である以上は自分で探すしかない。

非常に面倒かもしれない、非常にどうでも良い事かもしれない。

そう思うのであれば、固定化された価値観だけで十分なのだ。

数種類のジャンル化された価値観で楽しめば良い。

この先に考えて行く事は、言わば自分で好き勝手にロールプレイングゲームを作り遊ぼうという事である。

それが楽しいかどうかは、人によるのだ。

なぜなら最適解とはそういう事なのである。

③最適解追求論

最適解が一人一人違うのであれば、その求め方も違うのでは?などと言う正論は求めていない。

そんな事はわかりきった事であり、みなまで言うな、である。

重要な事は一つの方法論を追求した中で何かしらの普遍性なり最大公約数的なものでありが有るのではないか?という探求である。

何らかの何か有意義なものが少しばかりでもあれば良いだろうぐらいである。

で、一つの道具というものを考える時に重要なのが、何に使うかである。

まずはそこから、自動車を何に使うのか?である。

釣り竿で言えば、鮎釣りをするのに磯竿は使わない。

自動車でもそうだ。

それぞれに主だった用途や特性というものがある。

スポーツカーにはスポーツカーの。

クロカンにはクロカンの。

ミニバンにはミニバンの。

それぞれが用途に合わせて作られているわけだ。

なのでまずは自分自身がどのような用途をメインとして使うのか、それがはっきりしていないと始まらない。

だが、実際問題として、一つの目的だけに自動車を使うというのも限られた状況だろう。

配達であるとか、送迎であるとか、仕事として目的がはっきりしていれば簡単であるが、現実は多目的となる。

多目的用途、と言ってもまた多目的なりがいろいろとある。

近距離だけでの生活の足なのか、長距離での通勤などにも使うのか。

レジャーだけなのかどうか、などである。

逆に使用目的がはっきりしている場合、自動車選びは実に簡単明快になってくる。

なので個人的経験則に基づく手前勝手な分析方法を書いてみる。

1、使用一回あたりの走行距離

2、使用頻度

3、必要とする最大の積載能力

4、誰が何人乗るのか

この4点を押さえれば、まずは基本として大丈夫だろう。

例えば、1の走行距離が10キロとする、2の頻度は毎日とする、3の積載能力をベビーカー一台分と生活用品の買い出しなどとする、4を大人1名と子供2名とする。

そうなるとクーペなどは自然と除外され、背の低い自動車より背の高いよりファミリー向けの自動車の方が最適解となる。

そこで問題となるのが、乗りたいものに乗れないのでは?という点である。

④乗りたいものに乗る必要があるのかどうか

最適解を求めていくと、自分の乗りたい車に乗れないという状況が出てくる可能性がある。

それは当たり前で、自分はジープ・ラングラーに乗りたいけど6人家族でみんなでお出かけしないといけないのであれば、ラングラーという選択肢は無くなる。

同時に最適解はわかっているけど、その最適解が経済的に無理または不経済であるというのもある。

さらには様々なしがらみというものもあるかもしれない。

そうなってくると現実的に正解というものがさらにわけがわからなくなるのである。

逆に言えば固定化された価値観がとても便利なものにも思えてくるのである。

そう、そこが最大の罠であるのだ。

つまり正解というものを求めつつ、その正解が乗りたいというものと違う場がある、それはどうなのかという事である。

じゃあ乗りたいものに乗ればいいじゃないか、というだけの話でもあるし、じゃあ正解だの最適解だのはどうなるんだという事でもある。

だからこその罠となるのだ。

その「乗りたい」とは一体なんなのであろうか?

乗りたいものはどのような過程で決定したのであろうか?

イメージ、想像、憧れ、などであろうか?

現実と状況で考えて乗りたいのであれば、最適解に近づくはずである。

乗りたいと思うものと、正解とが乖離している場合は、現実から遠いイメージであると言える。

つまりは、乗りたい=固定化された価値観による思い込みであるとも言えるのだ。

様々な「情報」による価値観の固定化による思い込み、それが悪さをするわけである。

⑤思い込みを捨てる事が実は最大の幸福への道であったりする罠

思い込みを全て捨て去り、現実的に基づいた最適解の自動車選びを行えば、結果的に自分が望む自動車選びとなるわけである。

だが現実問題として思い込みを捨て去る事は難しい。

僕自身の思い込みを捨てていく過程を振り返れば、とんでもなく無駄な時間と金がかかっている。

逆説的には失敗するから失敗した理由がわかるというのもある。

では、僕自身の実例で考えてみよう。

僕は最初の車選びで失敗した。

92年式ホンダシビックである。

この時なぜシビックであったのか、まず思い込みでホンダが良いと思っていた。

なかでもEGシビックは早くてカッコよくて運転が楽しくて最高だろうと思いこんでいた。

スペックは知っていたし、車を頼んだ長年の付き合いのある車屋さんが選んだVtiというグレードのATは間違いが少ないのも事実だとは思う。

だけど結果的には散々であった。

今から思い返せば、EGシビックにこだわるのなら、MTのSiにこだわるべきであったし、そうでないのなら止めておけばよかったのだ。

さらに、3ドアのハッチバックにしたのはセダンなどでは友達を乗せて走り回って危ないという理由でそうしろという圧力もあったからだ。

この点も失敗点である。

で、実際に納車されて運転してみるが、自分がイメージしていたよりも遅い走らない。

小排気量NAエンジンなので高回転まで回さないと走らない。

だが、ATなのでガンガン踏むのも躊躇する。

そして想像していたよりも狭いし、シートもよろしくないし、楽しくもない。

またまた思い返せば、車屋さんはカローラセダンを勧めていた。

あとから同年式のカローラを運転した事があるが、シビックの方が断然スポーティではあるけれど正直VtiのATと比べてカローラが悪い事もなくむしろ落ち着いていて好みであった。

そしてまた思い返せば、あの頃はスペックを知っているだけで理解は出来ていなかった。

エンジン、タイヤ、シート、ボディサイズ、いずれも知っているだけで理解とは程遠いものであった。

そして自分の使い方、自分がなぜ車を使うのかという事も深く考えていなかった。

あの時にもう少し現実的な基準で選んでおけば、失敗とは言えなかっただろう。

結果的にシビックは一年でエアコンの不調などで売り払う事になった(無論中古なので二束三文だが)

自分の中で明確に失敗したと言えるのはシビックだけである。

もちろんシビックが悪い自動車ではない。

自分の勝手な思い込みで判断したのが失敗であったわけである。

⑥一途な片思い、実らせたい小さな幸せ、現実は失敗と

思い込みは価値観の固定化、インプットされたものだ。

その要因はカーメディアが作り上げた「幻想」である。

僕自身がその「幻想」に長年惑わされ続けたのでよくわかるのだ。

どのような自動車が良いのか、どのような自動車に乗りたいのか、すべてイメージであった。

つまり幻想である。

メディアの作る情報を鵜呑みにして影響されて幻想となる。

今から思えば何もかも幻想だった。

完全に脱却できたのは70系ヴォクシーに乗る今令和三年夏なのかもしれない。

自分にとって今が一番楽しい自動車に乗っている。

コロナプレミオも良かったが、それよりまた楽しい。

しかしここまでが失敗だらけであったのが現実だ。

SX4S-Crossだって良い車だが、自分にとって正解なのかどうかと考えていくと、わからない。

今の自分にとってもっとも現実に即した選択がヴォクシーであった。

仕事、子育て、買い物、などなど全てを思い通りにこなすには最高の選択で、さらに走らせて快適で楽しい。

これほど良い自動車が他にあるだろうか、それぐらい気に入っている。

だが、これほど「幻想」から程遠い自動車もない。

自分がおかしいのか?

そうじゃないだろう、楽しいものは楽しい。

そう、やはり幻想は幻想なのだ。

思い込みは思い込みなのだ。

そうだ、勝手に思い込んで、理想を夢見て、それは幻想だったんだよ。

⑦本当に乗りたいもの・夢の途中

今、乗りたいものに乗れている。

だけどまた現実が変われば、乗りたいものも変わるだろうし、最適解も変わる。

ひょっとしたらポルシェ・ケイマンがそうなるかもしれないし、CX5がそうなるかもしれない。

そんな事はわからない。

それが人生だし、それで良いのだ。

車選び考とは、結局は結論が無い正解も無い最適解も無いところからの出発である。

それは自分自身とは何かという事である。

自分自身とは何かということで、何かしらの答えがあれば、自ずと乗るべきものも乗りたいものも決まるのではないか?

自分自身がそうであったが、幻想という外の価値観ではなく、状況と内面の価値観を観ていく事、それで決まるのだ。

とりあえず自分自身が今楽しくて幸せである。

車選びで成功したわけだ。

だからこそ、書いておかねばならないことがたくさんある。

とりあえず、今思いつく事を書いておく。

自分はワンボックスタイプの車が根本的に好きで相性が良いのだろう、いやはっきりと良いのだ。

他人数・多目的で使用できるマルチパーパスなワンボックスタイプに子供の頃から憧れはあった。

近所の友達の親がタウンエース(マスターエースかもしれないしライトエースかもしれないが)で、一度乗せてもらったのだが、実に良かった。

こういう車で家族みんなでおでかけに憧れた。

うちは仕事の関係で家族で出かけることがほとんどなかった。

自動車はあっても、主に仕事などで使うからか、あまり楽しい印象は無かった。

そうだ、自分が憧れたのはあの楽しそうな雰囲気だったりするのだ。

70系ヴォクシーのまず楽しそうな雰囲気が好きだ。

そうか、楽しそうなのが好きなんだな。

実際にヴォクシーは何にでも使える、使い勝手がとても良い。

家族で出かけるにも不便はない。

ソリオやS-Crossは実に優秀、実によく出来ていたが、マルチパーパスという点ではサイズ的な限界があった。

フォレスターも最高であったが、チャイルドシートをつけてしまうと後部座席が完全につぶれてしまう。

やはりヴォクシーのサイズでないと思い通りに使えない。

そして走行性能も絶妙である。

S-Crossのようにノーマルだと物足りないアンダーパワー感は無い。

決してハイパワーでは無いのだが、不思議と満足して走る事ができる。

足回りなどもS-Crossのようなひたすら良いもの感は無いが、これまた不思議と満足できる。

こういう感じで良いんだよ、という塩梅である。

そう、塩梅なのだ。

アンダーパワーやプアパワーでは乗り味が悪い、かと言ってハイワパーも求めていない。

足回りも完璧は求めていないが、不愉快も困る。

そこで思い出すのはやはりコロナプレミオで、いろいろなバランスが良く、まさにブレッドアンドバターであった。

少し整理していくと、どうも自分が快適と判断する基準があるのだろう。

ボディサイズ、エンジンパワー、足回り、などなど。

コンパクトよりもミドルサイズ、Cセグメント以上がやはり良いのだろう。

エンジンも2000CCクラスの出力以上が良いのだろう。

さらに快適性が高い方が良いのだろう。

どうやら自分はワンボックスタイプが向いているのであろう。

考えてみれば70系ヴォクシーであることは必然であり、当然の結果でもあるのだ。

とりあえず、今現在、非常に満足できている事に感謝している。

ひとまず車選び考はここまで。

気が向いたらまた考えを書くかもしれない。